語訳(妙法蓮華経如来寿量品第十六の3)
【明らかに方薬に練し】文上では、良医が病人に適した薬を作るように、仏も一切の機根に応じた仏法をもって衆生を救う、その経の文理はまことに甚深である。天台では、十二部教の文理が甚だ深いことをいうと説く。
文底の仏法では、南無妙法蓮華経は一法であるが御本尊様は末法の衆生のあらゆる悩みを解決する力を、そなえておられることをいうのである。
【善く衆病を治す】天台では、四悉檀によって衆生の病を治すと説く。
文底の仏法では、御本尊様は身体の悩み、心の悩み、一家の悩み、一国の悩み、あらゆる悩みを解決して下さるのである。
【其の人】良医、すなわち仏。
【諸の子息多し】たくさんの子供、すなわち多くの仏子をいう。
【若しは十・二十・乃至百数なり】天台では、若しは十は声聞、二十は縁覚、百数は菩薩などと説く。
文底の仏法では、すべて末法の衆生をいうのである。
【事の縁有るを以て遠く余国に至りぬ】天台では、過去の応化の中の現滅を譬えると説く。
文底の仏法では、御本仏が末法にいたるまでの間わけがあって法性の淵底におられたのである。
【佗の毒薬を飲む】天台では、衆生が仏の滅後に三界邪師の法に楽著すと説く。文底の仏法では、日蓮正宗以外の宗教はすべて佗の毒薬すなわち邪宗教であり、飲むとは、その邪宗邪義を誤って信じたことをいう。
御義口伝(七五四頁)に云く、
「他とは念仏・禅・真言の謗法の比丘なり、毒薬とは権教方便なり法華の良薬に非ず故に悶乱するなり悶とはいきたゆるなり、寿量品の命なきが故に悶乱するなり」
【薬発し悶乱して地に宛転す】天台では、三界に堕在すという。
文底の仏法では、邪宗の害毒が身体の中にしみこんで、その毒が発して、もだえ苦しみ、地獄におちて、地を転げまわるというのである。
御義口伝(七五四頁)に云く、
「宛転千地とは阿鼻地獄へ入るなり云云」
【是の時に其の父還り来って家に帰りぬ】文上の天台では、三千年前に久遠の仏がインドに釈迦として応生したと説く。
文底の仏法では、末法の時に、久遠元初の自受用身が、娑婆世界の中でもこの日本国に、日蓮大聖人として再誕されたことをいうのである。
【諸の子毒をのんで】天台では、「邪師の法を信受するを名けて飲毒と為す」と説く。
御義口伝(七五五頁)に云く、
「諸子とは謗法なり飲毒とは弥陀・大日等の権法なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは毒を飲まざるなり」
日蓮正宗以外の宗教は、飲毒の邪宗であり、邪宗を信ずる者は飲毒の諸子である。
【或は本心を失える或は失わざる者あり】天台では失心とは三界に貪著して、先に植うる所の三乗の善根を失うこと、不失心とは五欲に執著すといえども、三乗の善根を失わないなどと説く。
しかし、文底の仏法では、失心とは久遠元初の下種を忘れた逆縁の者であり、不失心とは久遠元初に御本仏のおそばにいたことを忘れていない順縁の者である。
御義口伝(七五五頁)に云く、
「本心を失うとは謗法なり本心とは下種なり不失とは法華経の行者なり失とは本有る物を失う事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは本心を失わざるなり云云」
【遙かに其の父を見て皆大に歓喜し】天台では「色心を見ても法身を親奉することができないから遙という」などと説く。
文底の仏法では、其の父とは末法御出現の日蓮大聖人のことで、末法の衆生はみんな大いに喜んだのである。
【拝跪して問訊すらく】拝しひざまづいて、お願い申しあげた。
【安穏に】ご無事に。
【愚痴】バカだということ。
【誤って毒薬を服せり】あやまって、毒薬である邪宗教を信じた。
【救療せられて】お救い下されて。
【更に寿命を賜え】さらに強き大生命力、あらゆる功徳を下さい。
【経方】天台では十部の教なりと説く。文底の仏法では、寿量文底に秘沈された大白法をえりすぐること。
【薬艸】天台では、教の所詮の八万の法門なりと説く。末法の仏法では一大秘法の大御本尊をいう。
【色・香・美味】天台では、色とは戒、香とは定、味とは慧、すなわち色香味を三学なりと説く。また色は般若、香は解脱、味は法身すなわち三観なりとも説く。
文底の仏法では、色とは虚空不動戒、本門の戒壇、香とは虚空不動定、本門の本尊、味とは虚空不動慧、本門の題目、すなわち三大秘法なりと説く。
これを図示すれば、次のようになる。
色……戒―般若―本門の戒壇
香……定―解脱―本門の本尊
味……慈―法身―本門の題目
【擣篩和合】ふるったり、ついたりして薬を調製することである。すなわち一代聖教を取捨せんたくして、南無妙法蓮華経の大御本尊をとり出されたことである。
御義口伝(七五五頁)に云く、
「此の経文は空仮中の三諦戒定慧の三学なり、色香美味の良薬なり擣は空諦なり篩は仮諦なり和合は中道なり与は授与なり子は法華の行者なり服すると云うは受持の義なり、是を此大良薬色香美味皆悉具足と説かれたり、皆悉の二字万行万善・諸波羅密を具足したる大良薬たる南無妙法蓮華経なり、色香等とは一色一香・無非中道にして草木成仏なり、されば題目の五字に一法として具足せずと云う事なし若し服する者は速除苦悩なり、されば妙法の大良薬を服するは貪瞋癡の三毒の煩悩の病患を除くなり、法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉る者は謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり、法華の行者は罵詈せらるれども忍辱を行ずるは瞋恚の病を除くなり、法華経の行者は是人於仏道決定無有疑と成仏を知るは愚癡の煩悩を治するなり、されば大良薬は末法の成仏の甘露なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大良薬の本主なり」
【与えて服せしむ】天台では、この法をもって漸頓の衆生にあたえて修行せしめたことと説く。
文底の仏法では、三大秘法を末法の悩める衆生に授けられたことである。
【大良薬】南無妙法蓮華経の大御本尊。一大秘法のことである。
【衆の患なけん】どんな悩みも解決するであろう。
【除こり愈えぬ】悩みが解決した。
【求索むと雖も……肯て服せず】病気をなおしたいと願いながらも、その薬をのもうとはしない。末法において貧苦のドン底にあえぎ、幸せになりたいと願いながらも、大良薬たる大御本尊を信仰しないことである。
【毒深く入って本心を失えるが故に】邪宗の害毒が深く入って、本心を失っているが故に。
御義口伝(七五五頁)に云く、
「毒気深入とは権教謗法の執情深く入りたる者なり、之に依って法華の大良薬を信受せざるなり服せしむと雖も吐き出だすは而謂不美とてむまからずと云う者なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは而謂不美の者に非ざるなり」
【毒に中られて】邪宗教の害毒のために、信心の心がこわされて。
【死の時已に至りぬ】天台では、当に涅槃に入るベきなりという。
文底の仏法では、末法御本仏、日蓮大聖人が寂光の宝刹に還られたこと、すなわち御年六十一才で池上において涅槃されたことである。
【是の好き良薬を今留めて此に在く】天台では、経教を留めて在りと説く。
文底の仏法では、三大秘法の大御本尊を、日蓮大聖人様が末法の時、日本の国は冨士大石寺の奉安殿にのこされたことである。
御義口伝(七五六頁)に云く、
「是好良薬とは或は経教或は舎利なりさて末法にては南無妙法蓮華経なり、好とは三世諸仏の好み物は題目の五字なり、今留とは末法なり此とは一閻浮提の中には日本国なり、汝とは末法の一切衆生なり取は法華経を受持する時の儀式なり、服するとは唱え奉る事なり服するより無作の三身なり始成正覚の病患差るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る是なり」
【差えじと憂うることなかれ】病気がなおらない、すなわち悩みが解決しないと心配することはない。全部解決するぞとの仰せである。
【復佗国に至り】天台では、此の方に滅を現じ他方に生を現ずるなりと説く。
文底の仏法では、日蓮大聖人が亡くなられて、霊鷲山におもむかれたことをいう。
【使を遣わして還って告ぐ】天台では或は涅槃の中の大声の普く告ぐるを取って使人となし、或は神通を用い、或は舎利を用い、或は経教を用うる等を使人となす、今は四依の菩薩を用うなどと説く。
文底の仏法では、別しては、代代の日蓮正宗の御法主上人猊下が末法の衆生に大御本尊を取りつがれることである。
【背喪せり】すでに亡くなってしまった。
【慈愍】あわれみ、いつくしむこと。
【孤露にして恃怙なし】一人ぼっちになってしまって、たのみとするものがない。
【悲感】悲しみの心をもつこと。
【醒悟】目がさめる。折伏されて邪宗の迷いからさめること。
【虚妄の過】ウソつきのとが。
【偈】偈他の略称。偈他は梵語で、訳せば頌という。
通偈と別偈があるという。別偈の中の重頌というのは、長行に説いたのを、更に重ねて偈頌をもって説くのをいう。自我偈はこれにあたる。
【我仏を得てより来】自我得仏来。文上では、釈迦が仏になってから、ということであるが、文底の仏法では、この自我得仏来に重重の深い意味がある。
御義口伝(七五六頁)に云く、
「一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば則ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云」すなわち、自我得仏来を、御義口伝によって図示すれば次のようになります。
我……法身如来
①仏……報身如来
来……応身如来
この三身如来は無始無終の古仏にして自得なり
②自……九界 この十界は本有無作の三身にして
我……仏界 来る仏なり。
③自も我も得たる仏来れり、十界本有の明文なり。
また御義口伝(七五九頁)に云く、
「自とは九界なり我とは仏身なり偈とはことわるなり本有とことわりたる偈頌なり深く之を案ず可し、偈様とは南無妙法蓮華経なり云云」
更に御義口伝(七五九頁)に云く、
『自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍って自我偈は自受用身なり法界を自身と開き法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし、自受用身とは一念三千なり、伝教云く「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云』