語訳(妙法蓮華経如来寿量品第十六の2)

 

種種の方便を以て微妙の法を説いて】文上の天台では、「種種の方便を以て」とは、小身短命の仏が漸教を説くことで「微妙の法を説いて」とは、大身長寿の仏が頓教を説くことだ、などといっている。

しかし、文底の仏法では、ただ南無妙法蓮華経の微妙なる一法を説くのみで、方便の教は説かない。強いていえば、罰と利益の二つの方便をもちいられるのである。

能く衆生をして歓喜の心を発さしめき】文底の仏法では、われわれが御本尊様を拝んで、歓喜していることをいうのである。

如来……を見ては】仏眼をもって、照らすことだという。

小法を楽える】低い仏法に執着することである。天台では、往昔、現在、修行、果門などに約して説いている。たとえば、釈迦の久遠実成を聞くことを好まず、始成正覚のインドの釈迦の説法を好むものなどがそうである。

文底の仏法では、日蓮正宗以外の邪宗教をやっているものは、みな「小法を楽える」人人である。

徳薄垢重の者】徳のうすい、垢のたまった、けがれた者ということである。文上の天台では、徳薄とは縁了の二善の功用が微劣なことで、垢重とは見思惑をまだ除かないことだといっている。しかし、日蓮大聖人は観心本尊抄(二四九頁)に、『一品二半(御本尊様のこと)よりの外(邪宗)は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く、其の機を論ずれば(邪宗のものは)徳薄垢重・幼稚・貧窮・孤露にして禽獣(鳥やけもの)に同ずるなり』とおっしゃっておられる。故に「徳薄垢重の者」とは、日蓮正宗以外の邪宗を信じ不幸にあえぐものをいうのである。

 

我少くして出家し】文上では、インドの釈迦が十九才の時に王子の位をすてて出家し、前後六年づつ十二年間修行したこと。天台では、出家とは、劣応は分段生死の家を出で、勝応は分段変易、二種の生死の家を出ず、などという。

文底の仏法では、日蓮大聖人が御本仏の身にかかわらず、お若くして、出家の御姿を示されたことをいうのである。

 

阿耨多羅三貌三菩提を得たり】前の語訳参照。仏の智慧をえた、成仏の境涯をえたということ。文上では、釈迦がインドで三十才のときに成道したこと。

文底の仏法では、日蓮大聖人が御本仏でありながら、竜の口御法難で成道のお姿をとられたことである。

 

久遠】文上では、五百塵点劫のこと。そのときに成道した仏を久遠実成の釈迦という。

文底の仏法では、久遠元初のこと。そのとき久遠元初の自受用身(御本尊・日蓮大聖人)がおられた。       

 

但方便を以て衆生を教化して、仏道に入らしめんとして是の如き説を作す】文上では、「小法を楽える徳薄垢重の者」を化導するために、釈迦はインドで始成正覚の姿を示し、方便の教を説いたのである。

文底の仏法では日蓮大聖人がもともと御本仏でありながら、一応外用の辺で上行菩薩の再誕の姿を示され、また竜の口で成道の姿をとられたことをいうのである。

 

如来の演ぶる所の経典】仏が説いた経典のこと。文上では、釈迦が五十年間で説いた、華厳、阿含、方等、般若などの教えをいう。

しかし、文底の仏法では、日蓮大聖人は御書や説法で、南無妙法蓮華経の教のみ説かれたのである。

 

度脱】人人の悩み苦しみを救って幸福にすることである。生死(悩みの生活)の苦海を渡り、煩悩の束縛を脱すること。

 

或は己身を説き、或は佗身を説き、或は己身を示し、或は佗身を示し、或は己事を示し、或は佗事を示す】この文を六或といっている。己身、己事とは仏界をいい、佗身、佗事とは九界をいう。また、天台では、「法身を説くのは己身を説きで、応身を説くのは佗身を説きで、正報を示すのは己事を示しで、依報を示すのは佗事を示すで、随他意語は佗身を説きで、随自意語は己身を説くである」などという。

日蓮大聖人は日眼女造立釈迦仏供養事(一一八七頁)で、

『法華経の寿量品に云く「或は己身を説き或は他身を説く」等云云、東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等・文殊師利・舎利弗等・大梵天王・第六天の魔王……一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、例せば釈尊は天の一月・諸仏・普薩等は万水に浮べる影なり』云云とおおせられている。

ここで、文上の釈迦仏法からみれば、教主釈尊とは久遠実成の釈迦である。しかし、文底の仏法からみれば、教主釈尊とは、久遠元初の自受用身、末法御本仏・日蓮大聖人であられる。すなわち、この六或の文は、ある時は仏として、ある時は九界の姿で人人を救う、日蓮大聖人の慈悲の働らきを示された文である。

 

実にして虚しからず】本当であってウソではない。

所以は何ん……】天台では、ここからの六句(釈謬あることなし、まで)は、今日の応身は即これ久成の法身なることを明すといっている。法身如来すなわち、生命の不思議な姿を説いている。

 

如実に……知見す】実のごとく、ありのままに、知っている。御義口伝(七五三頁)に曰く、

「如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり。本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、生死を見て厭離するを迷と云い始覚とうなりきて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の儘十界本有の妙法の全体なり、生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、されば無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり、無死退滅は無作の報身なり有生出在は無作の応身なり如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、一身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり、然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云。

 

三界の相】三界のすがた、ありさま。三界とは、仏教の世界観で、①欲界(欲望の世界)②色界(物質の世界)③無色界(精神の世界)をいう。すなわち宇宙をいろいろに見たのである。

①欲界は下地獄界より上天上界の六欲天までのすべてをいい、食欲、性欲、睡眠欲等の存する境涯をいう。②色界とは欲界の外の浄妙の色法すなわち物質のみ存する天上界の一部をいう。③無色界は物質のない世界で最上の天上界をいう。

 

生死の若しは退若しは出あることなく】文上の天台では、無有生死とは分段変易、二極の生死の苦がないことで、若退若出とは、五住の集があるのを退といい、無常の果が現ずるのを出という、といっている。

文底の仏法では、本有の生死であり、本有の若退若出であり、生れる、死ぬ、楽しむ、苦しむということは、単なる永遠の生命の変化であり、御本尊様を拝めば問題はなくなるのである。

 

【在世及び滅度の者なし】文上の天台では、生死(苦しみの生活)が世にあることなく、涅槃の滅に入ることはないのだ、この二つは、ともに滅するのだ、と説いている。

たとえば、生命というものは、この世に現れたとか、なくなってしまったとか、そのようなことはないというのである。

 

【実に非ず、虚に非ず】文上の天台では、滅度の実でもなく、生死の虚でもないからだ、といっている。

たとえば、生命は取り出して見せるわけにもいかず、そうかといって、生命がないわけではない。

 

【如に非ず、異に非ず】天台では、世間の隔異でもなく、出世の真如でもないからだ、といっている。

たとえば、生命というものは、昔の生命と今の生命は同じかといえば、同じではない、そうかといって、異うかといえば異ってもいない。

 

【三界の三界を見るが如くならず】天台では、この三界は、三界の迷える衆生が見るようなものでなく、唯仏一人のみが明らかに見ている、といっている。

すなわち、この世の中の姿は、われわれが自分自分の立場で見るようなものではなく、御本尊様のみが世の中の姿を正しくごらんになって間違いがないのである。

 

【如来明らかに見て錯謬あることなし】ただ仏のみが明らかに間違いなくごらんになる。天台では仏のみ実智の用をそなえて実の如く三界を見るという。

文底の仏法では、御本尊様のみが明らかに間違いなくごらんになる。また御本尊様を信じ拝みまいらせれば、われわれも、世の中を明らかに見る仏の智慧をいただくのである。

 

【種種の性】いろいろな根性。天台では、漸頓の根性と説き、為人悉檀を用いて善根をおこさせよという。

文底では、われわれのいろいろな性分をいう。

 

【種種の欲】いろいろな欲望。天台では世界悉檀を用いよという。

文底では、われわれのいろいろな欲望をいう。

 

【種種の行】天台では、為人悉檀を用い、愛著多いとき対治悉檀を用いよという。

文底では、われわれのいろいろな行いのこと。

 

【種種の憶想】天台では、憶想とは智慧、相似の解であり、第一義悉檀を用いよという。

文底では、われわれのいろいろな考え、思想をいう。過去のことを思い出すことを憶といい、後のことを考えるのを想という。人々はいろいろと考えて、それぞれに分別が異る。

 

【諸の善根】文底の仏法では、いろいろな善根とは折伏である。御本尊様は、われわれに折伏をさせて、功徳をあたえようと、なさっておられるのである。

 

【因縁・譬喩・言辞】前の語訳参照。文底から拝すれば、日蓮大聖人は、釈迦仏法のごとき因縁、譬諭、言辞ではなくて、下種仏法の立場から、われわれに親しく因縁や譬喩(講義参照)や言葉によって正法を説かれた。

 

【所作の仏事未だ曽て暫くも廃せず】天台では、総じて不虚を結し七方便はみな一実に入るという。

文底の仏法では、御本尊様は少しもお休みなく、われわれを教えみちびき功徳や福運をあたえて下さることをいう。ただし、われわれの信心による。

 

【寿命無量阿僧紙劫常住にして滅せず】仏が成仏してからの寿命は無量阿僧祇劫で、仏は娑婆世界にいつも常住して滅しない。

文底では、日蓮大聖人が久遠元初いらい、いつも娑婆世界にお出でになることをいう。

 

【我れ本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命】これ、本因妙の文である。文上では、釈迦が五百塵点劫に成仏する前に、菩薩行をやったのだということ。根本をいえば、釈迦は御本尊様を拝んで仏になった。この釈迦の我本行菩薩道に五十二位があるが、その本因初住の文底に御本尊様が秘し沈められている。

文底の仏法では、日蓮大聖人は久遠元初(無始)において、我が身は地水火風空なりと知しめされて悟を開かれた(総勘文抄五六八頁)のである。すなわち無始無終の御本仏であられる。

 

【薄徳の人は善根を種えず】小法を楽う薄徳の人(前の語訳参照)は、仏がいつも世におられるのを見ると、善根をうえようとはしない。

文底の仏法では、善根を種えずとは、折伏をしないことである。したがって福運をつかむことができないのである。

御義口伝(七五四頁)に云く、

「此の経文は仏・世に久住したまわば薄徳の人は善根を植ゆ可からず然る間妄見網中と説かれたり、所詮此の薄徳とは在世に漏れたる衆生今滅後日本国に生れたり、所謂念仏禅真言等の謗法なり、不種善根とは善根は題目なり不種とは未だ持たざる者なり、憶想とは捨閉閣抛第三の劣等此くの如きの憶想なり、妄とは権教妄語の経文なり見は邪見なり、法華第一の一を第三と見るが邪見なり、網中とは謗法不信の家なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者はかかる妄見の経・網中の家を離れたる者なり云云」

 

【貧窮下賤】天台では、貧窮下賤であるから、二善を生せず利益がなく、見思を断ぜず三悪を断ぜず罰があると説く。

文底の仏法では、御本尊様を信ぜず折伏を行じない故に、貧しくいやしい生活におちるということである。

 

【五欲に貪著し】五欲に執着すること。五欲とは

①色欲(眼に対する)②声欲(耳に対する)③香欲(鼻に対する)④味欲(舌に対する)⑤触欲(身に対する)である。

すなわち、五根が五塵の境に対しておこす欲情である。五根とは、眼、耳、鼻、舌、身である。五塵とは、色、声、香、味、触の五物質である。

 

【憶想妄見の網の中に入りなん】小さい自己を主として物事を考え、いろいろな思想、まちがった見解の迷路の中におちこんでしまうであろう。天台では、憶想は見惑、五欲は思惑という。

 

【僑恣を起して】僑はおごる、恣はほしいままとよみ、法をきいても、バカにして、わがままの心をおこすことである。

 

【厭怠を懐き】仏道修行がイヤになって、なまけること。

 

【難遭の想】あいがたい仏に対して、あいたいと願う切実な想い。

 

【恭敬の心】仏さま、御本尊様に対する、心からうやまう精神。

 

【比丘】比丘とは梵語である。男子の出家受戒したものの通称である。

 

【諸仏の出世に値遇すべきこと難し】天台では、三仏(釈迦・多宝・十方分身の諸仏)にあうことはむずかしいと説く。

文底の仏法では、大御本尊様にお目にかかることはむずかしいということ。

 

【或は仏を見るあり、或は見ざる者あり】天台では仏を見るとは、仏が常に霊鷲山にいるのを見るのだと説く。

文底の仏法では、末法の福運のない人人は、なかなか御本尊様にお会いできないということを示している。

 

【恋慕を懐き仏を渇仰して】御本尊様を恋いしたう心をもち、日でりに水を欲するように、日蓮大聖人様にお会いしたいと思うこと。

 

【譬如良医】『譬えば良医の……如し』とよむ。法華経七譬の中の「良医治子の譬」である。釈迦仏法の中では、もっとも重要な譬である。文上では、良医とは久遠実成の釈迦である。天台では、この譬えの中に、過去の益物、現在の応化、未来の応化などを説いている。

文底の仏法では、良医とは、久遠元初の自受用身、父とは末法御本仏・日蓮大聖人、使とは日蓮正宗代代の御法主上人猊下と立てるのである。

 

【智慧聰達】文上の天台では、智慧とは権実の二智で深く二諦を知る、聰達とは五眼をもって機を見て頓漸差わないことだという。

文底の仏法では、大御本尊様の広大無辺なる智慧を、ほめたたえるのである。智慧がすぐれておられるとは、南無妙法蓮華経に通達なされていることである。