戸田城聖講述 方便品寿量品精解  52 御観念文について

 

七、御観念文について

 

〔御観念とは〕

この観念というのは、自分の心に念じて御本尊様に申し上げることです。

「題目上げながら、いろいろ考えが出てくるのですが、いいでしょうか」と聞く人がありますが、悪いといっても出てくるものはしょうがない。止めろというわけにもゆかないでしょう。しかし、御観念文をやるときには、気をつけなければならない。「あの野郎、トンデモナイ野郎だ」なんて思いながら御観念をしたら、「トンデモナイ野郎だ」ということを御観念申し上げていることになってしまう。「アイッ、後でぶんなぐってやろう」なんて思っていると、それが御観念文になってしまう。口では「本門寿量品の肝心、文底秘沈の大法……」とやっていって、肚の中で別のことを考えていれば、その考えていることの方が御観念文になるのです。口の方でいっている方が御観念文になるのではないのです。

 

〔初 座〕

生身妙覚自行の御利益・大梵天王・帝釋天王・大日天王・大明星天王・天照太神・正八幡大菩薩等・惣じて法華守護の諸天善神・諸天晝夜常爲法故而衛護之の御利益法味倍増の御爲に。

 

これは、朝、御本尊様に向って三度題目を唱えてから東の方に向く。そのときには大日天を中心にして、宇宙の大生命のうち化他行はやらないが、自行の御利益即ち自ら題目を唱えた功徳によってなったところの大梵天・帝釈天、あるいは増長天王・持国天王・広目天王・毘沙門天王という四天王から、あるいは、大日天・大月天・大明星天・天照太神・正八幡大菩薩、その他あらゆる法華守護の諸天善神がズーッと並んでいる。そこに向って、われわれは法味をさし上げる。大御本尊を受持するがための故に、われわれを日夜にお守り下さっているのは、まことにありがたいことです。こういってお礼を申し上げるのです。

ここに面倒なことが書いてあります、諸天昼夜常為法故而衛護、これは法華経の中の言葉です

諸天が昼夜に常に法の為の故にこれをお守り下さる、それをお礼申し上げることなのです。

 

「諸天善神、昼夜にわれわれが御本尊を受持してるがための故に、創価学会員同志一同をお守り下さって、ありがとうございます」会長は、このように申し上げています。これなら、はっきりしているでしょう。

 

 初座の御観念文がすんで、今度は、二座で御本尊様の方に向いますと、その諸天善神が、その中には鬼子母神もあれば、あるいはまた夜叉もいる、みな法華守護の約束をした連中が、サアーッとわれわれの後の方に並んで控えていることになります。そして、大御本尊様に向って唱える経文、題目をきちんと聞いているのです。荘厳な儀式であります。

 

 中には、こういうことをいうヒトがあります。あっちでもこっちでも、この御観念文をやったら、梵天・帝釈・諸天善神が急がしいだろうというのです。ヒドイヒトになると、朝九時すぎてやったら、梵天・帝釈がいなくなるなんていう人がある。そんなバカな話しはありません。いつでもいるにきまっております。われわれの生命の中にもきちんといるのです。大宇宙の中にある梵天・帝釈というものが、きちんと向うへ並ぶのです。何千人やったってかまわないのです、分身散体といいまして、仏法においてのみいわれる大哲学があるのです。

 

〔二 座〕

南無本門壽量品の肝心、文底秘沈の大法、本地難思、境智冥合、久遠元初自受用報身、如來の御當體、十界本有常住、事の一念三千、人法一箇、一本門戒壇の大御本尊、御威光倍増、御利益廣大、御報恩謝徳の御爲に。

 

 これは仏の十号と申しまして、御本尊様に向って左の方に、「福十号に過ぐ」とある、あの十号と、この十号とは違う。あの十号は、釈迦仏法の仏の十号なのです。釈迦仏法の仏の福運にすぎるぞとの仰せなのです。これは、末法の御本尊の十号になるのです。御本尊様の十の御徳を申し上げて讃嘆しているのです。御本尊様の別名というか、十のお位というか、十の御資格というか、それぞれの意味をのべてみますと、

 

①南無本門寿量品の肝心

寿量品の肝心といえば、経文の心みたいに思うでしょうけれども、大聖人様のお読みになった寿量品は生きているのです。その生きている生命の中心が寿量品の肝心です。寿量品それ自体が生命です、その肝心、それが南無妙法蓮華経だというのです。

 

②交底秘沈の大法

壽量品の我本行菩薩道の本因初住の文底に秘し沈めてあるところの仏様、御本尊様というのです。

 

③本地難思

御本尊様の本地というものは、仲々わからぬものです。本地とは、いわば大宇宙それ自体なのです。

 

④境智冥合

境と智というものは、冥合しなければいけない。境とは客観世界、智とは主観世界。客観世界と主観世界とが、ぴたっと合っていなければならない。御本尊様の境は、三世にわたり大宇宙の大きさです。智は御本仏の智です。それが冥合している。

 

⑤久遠元初自受用報身

久遠元初というのは、大御本尊様の本時です。釈迦の本時は久遠なのです。久遠元初とは、そのまま大字宙それ自体なのです。時間的には無始無終であり、現在の一瞬にもふくまれます。自受用報身、まず報身というのは、法身如来・報身如来・応身如来とあるうちの、報身をもって主にしますから、こういうのです。久遠元初の自受用報身、だれのために生まれたのでもない。他受用報身というのは、人のために何かしてやらなければならないというので、生まれたのをいうのです。同じ仏でも、自受用報身とは、そのままということです。大御本尊様は、南無妙法蓮華経そのままなのです。それで自受用報身というのです。

 

⑥如来の御当体

南無妙法蓮華経如来寿量品の、その如来の御当体で、御本仏の本体であらせられる、これが御本尊様です。

 

⑦十界本有常住

この本有常住ということを、身延あたりでは知らない。身延では勧請(かんじょう)してきたというのでしょう。十界勧請の曼茶羅ということを邪宗ではいう。それは間遠いです。十界本有常住というのは、十界にそのまま御本尊様がいっしゃる。そのままいらっしゃるが故に、ほかの九界も全部そろっているということです。これが当宗のお曼茶羅なのです。

 

⑧事の一念三千

事の一念三千というのは、御本尊のことです。事とは仏の仰せのままの行動を事というのです。

すなわち久遠元初自受用報身の御振舞い自体であります。その事を理論で説明しているのは、理の一念三千になります。

 

⑨人法一箇

人と法とは離れておらない。大聖人様が御本尊様であらせられれば、御本尊様も大聖人様であらせられる。人に即して法、法に即して人、これが御本尊様の御姿です。大聖人様がいらっしゃらなければ大御本尊様はないのですから、南無妙法蓮華経といえば大聖人様なんですから。人と法とは離れません。

 

⑩独一本門戒壇の大御本尊

独一本門というのは、釈迦の仏法では、法華経二十八品のうち、前の十四品を迹門といい、後の十四品を本門というのです。ところが、大聖人の仏法ではこの釈迦の迹門も、本門も、あわせて迹門に扱うのです。南無妙法蓮華経それ自体が本門になる。ですから、独一という言葉を使うのです。        

独一本門とは、釈迦の本門とは全然違うという意味です。その独一本門の戒壇の大御本尊と、仏様に十の讃め言葉を申しあげて、その御威光倍増、御利益広大、御報恩謝徳のためにするのです。

 

〔三 座〕

南無本因妙の教主・一身即三身・三身即一身・三世常恒の御利益・主師親三徳・大慈大悲・宗祖日蓮大聖人師・御威光倍増、御利益廣大、御報恩謝徳の御爲に。

 

これは、大聖人様にたいして、おほめの言葉を申しあげてお礼を申しあげるのです。なぜ本因妙の教主というかといえば、釈迦は本果妙の教主なんです。末法の仏は本因妙の教主になるのです。

教主とは、仏という意味です。本因妙の仏法の中で、もし本因本果を立てれば、大聖人様が本果妙の仏で、日興上人様が本因妙の姿となります。(教学問題の解説・二〇六頁参照)仏法の上で、法身如来の境涯を説いた経文もあります。大日如来なんかそうです。それから、報身如来を説かれている。般若経なんかそうです。あるいは応身如来を説かれている。阿含なんかはこれに入る。ところが、大聖人様は、法身如来であり、報身如来であり、応身如来でいらせられる。ですから、一身は即三身如来にわたらせられる。また三身は即一身であらせられる。一身即三身という場合は、三身に主体があるから、無作三身如来であり、三身即一身という場合は、一身に主体があるから、自受用身となるのです。

三世常恒の御利益、過去・現在・未来の御利益を持たれている。

主・師・親 ― 親でもあり、主人でもあり、お師匠さまでもいらせられる。一般衆生に対して三徳を持っていられる宗祖日蓮大聖人様に対して、お讃めを申しあげてお礼を申しあげるのです。

 

南無法水瀉瓶・唯我與我・本門弘通の大導師第二祖白蓮阿闍梨・日興上人師・御威光倍増、御利益廣大、御報恩謝徳の御爲に。

 

これは御開山日興上人様に厚く御礼申しあげるのです。法水瀉瓶というのは、ここに二つの茶碗が、どんな形に変っても、この中の水を瀉せば中の水は変りない。ですから、代々の御法主猊下は、お人によって、いろいろとお姿は違うのですが、大聖人様の法水が、そのまま変りなく移されているのです。(教学問題の解説・二〇九頁参照)

唯我与我の御境涯とは、大聖人様と日興上人様とは御境涯が同じだというのです。

仙台仏眼寺の"飛曼茶羅(とびまんだら)"というのは、大聖人様と日興上人様との合作の御本尊様です。

 

南無一閻浮提の御座主・第三祖新田卿阿闍梨日目上人師・御威光倍増、御利益廣大、御報恩謝徳の御爲に。

 

第三祖日目上人様にお礼申しあげるのであります。この方はお偉い方で、非常に邪宗との問答が巧みで、大聖人様から信頼をうけておりました。御肉牙をいただいたともいわれております。

御開山様にもずーつと仕えまして、天皇折伏のため七十四で京都へ向われる途中、垂井まで行かれて、そこで亡くなったのです。ですから、御開山様が、一閻浮提の御座主、日本中の座主であると、仏勅を下されたのです。

 

今学会では、登山のたびに、皆様から御供養を願って、御小僧さんのために御供養をさし上げています。何のためかといいますと、お山でも、一月十五日、これは日目様の御命日ですが、小僧さん方を法主様が御招待なさるのです。なぜかといいますと、この中に日目様があられるかも知れないという意味で、御馳走をするのです。それは広宣流布のときには、日目様が御出現になるといういい伝えがあるのです。もちろん広宣流布のときにはお出掛けになって下さると思います。もう出てきていらっしゃるかも知れません。(教学問題の解説・二一三頁参照)

 

南無日道上人師・日行上人師等・御本山歴代の御正師・御威光倍増・御報恩謝徳の御為に。

                           

代々の御法主上人様にお礼を申しあげるのです。ここまで仏法をつないで下さって、清くお山をお守り遊ばされた代々の御正師さまに、ありがたく思ってお礼を申しあげるのです。

 

奉祈念・天皇陛下護持妙法・爾前迹門の謗法退治・一天四海本因妙広宣流布大願成就・御祈禱の御為に。

 

天皇陛下に御本尊を持たせるために、紫宸殿御本尊ができております。

それは、富士大石寺にのみ厳然としてあるのであります。

しかし、広宣流布の御祈念は、何も天皇に頼むのではないのです。故に学会の幹部は、次のように御祈念申しあげております。

 

祈念し奉る我等弘法の誠意大御本尊に達し一天四海本因妙の廣宣流布大願成就御祈禱の御爲に。

 

〔五 座〕

日本国中当門信仰の面々内得信仰の面々各々先祖代々の精霊迫善供養菩提の為に、某先祖代々の精霊迫善供養菩提の為に

(総て御回向は此処に於てなし御回向のときは鈴を打つこと)

 

某過去遠々劫現在万々の謗法罪障消滅現当二世大願成就の為に

(総て御祈念は此処に於てなすべし……または四座で)

 

 ここでは、われわれのすべての御願いを御本尊様に申しあげるのであります。

 今から二十五年ほど前に、折伏した女の方が、今ではエライ金持になっておりますが、そのころは長屋みたいな汚ない所に入っていたのです。今は、立派な家を建てて、財産は一億とかいっております。女の手一つです。この人が最初信心したときに、ここの所へくると、リンが一間ほどすっ飛んだという。お願いごとをして、強くリンを叩くとポーンと飛んでしまう。飛ばさなきゃ功徳がないというわけではありませんが、そのくらいの気持で御祈念は申し上げた方がいいでしょう。

 

乃至法界平等利益自佗倶安同帰寂光

 

 最後に、金世界が全宇宙法界が、平等に御本尊様の利益をうけて、早く自他ともに幸福な寂光土が出現するようにお願い申しあげるのであります。