妙法蓮華経如来寿量品第十六 自我偈 (5) 本文解釈の37,38,39
37
我亦爲世父。救諸苦患者。爲凡夫顚倒。實在而言滅
【我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり 凡夫の顚倒せるを為て 実には在れども而も滅すと云う】
(文上の読み方)
通解にあり(22頁下段11行~14行)
(文底の読み方)
大聖人様は、このお言葉を非常に強くお用いになっております。我亦為世父、大聖人様は世の中の父である。もろもろの苦患を救うものである。これは大御本様尊のお言葉と取っていいのです。
我とは大聖人、御本尊のことです。諸の苦患を救うものであると、約束せられているのですから、自我偈を読むときには、この御約束を強く感じなければならない。御本尊様は、いろいろな憂いや苦しみのある者をば、必らず救ってくれるのだと、信じ切って差しつかえない。次の句は生命論であります。
こういう厳然たる約束があるにもかかわらず、このことを、仏法上から見ないで、世の中のことから御本尊を見て疑う者は、世の中を引っくり返して考えている者である。こういう者は、生命観においても、永遠の生命であるにもかかわらず、ただ滅するのだと見ているというのです。ところが、大聖人様の御書を拝しますと、こういうヤヤッコシイことは、おっしゃっておらない。大聖人様の仏法が徹底しているのは、そこです。「生死の理を顕わさんがために、あなたの旦那は亡くなったのだ」とおっしゃっています。
38
以上見我故。而生憍恣心。放逸著五欲。堕於悪道中。我常知衆生。行道不行道。随應所可度。爲説種種法。
【常に我を見るを以ての故に 而も憍恣の心を生じ放逸にして五欲に著し悪道の中に堕ちなん 我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って 度すべき所に随って 為に種種の法を説く】
(文上の読み方)
通解にあり(22頁下段15行~23頁上段3行)
(文底の読み方)
この前の長行のときに、仏久しく世に住するならば……とありましたように、仏がもしこの世の中にずーっといるならば、われわれの衆生というものは、憍恣の心や放逸の心を起して、五欲に貧著して、満足な修行をしないようになる。そして悪道におちてしまうということです。五欲というのは、目の楽しみ、耳の楽しみ、鼻の欲、舌の欲、皮膚の欲、この五つです。五欲に著しますと、ついそこから悪道におちるというのです。五欲に著しなければいいのであって、五欲を楽しめばよいのです。
次は御本尊様の偉大な御力を、説いているのであります。行道というのは、御本尊を信じまいらせて折伏すること。不行道とはやらないことです。御本尊様はそれを知しめして、その人の態度にしたがって、どうして救おうかと考えられて、罰と利益とを出して下さるというのです。信心しないからといって、憎みあそばしてはいないので、それにおうじて救ってやるのだ、行道、不行道は、きちんと仏様はわかっておいでだというのです。
よく質問会なんかで「信心したのはいつか」と聞くと、「もう四年もしている.それで病気がまだはっきりなおらない」という。それはインチキな信心です。不行道です。御本尊様の功徳に、そんなバカな話しは断じてありません。
39
毎自作是念。以何令衆生。得入無上道。速成就佛身
【毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして無上道に入り 速かに仏身を成就することを 得せしめんと】
(文上の読み方)
通解にあり(22頁上段3行~下段4行)
(文底の読み方)
毎自作是念、これは御本尊様が、常にどうしたならば、衆生をして ― 仏法に無上道と有上道とあるのです。無上道というのは、この上もない道、それは南無妙法蓮華経です。仏法の最高峰をいうのです ― 無上道を得さしめして、速やかに仏身を成就させられようか、仏の境涯をどうしたならば、つかませてやれるだろうかといって、念じておられるというのです。これが、自我偈の最後のくくりです、南無妙蓮法華経の力によって、みんなを仏の身にしてやりたいものだと、御本尊は常に念じておられるのであります。
一生懸命に題目を唱え折伏を行じ、信心をとげて、速やかに仏身を成就しようではないか。