妙法蓮華経如来寿量品第十六 自我偈 (5) 本文解釈の35,36
35
慧光照無量。壽命無数劫。久修業所得。汝等有智者、勿於此生疑。當断令永盡。
【慧光照すこと無量に 寿命無数劫 久しく業を修して得る所なり 汝等智あらん者 此に於いて疑を生ずることなかれ 当に断じて永く尽きしむべし】
(文上の読み方)
通解にあり(22頁上段16行~下段5行)
(文底の読み方)
慧光ということは、大御本尊様の功徳のことで、その功徳は、無量である。縦には永遠に、横には宇宙法界にわたって、大御本尊の功徳は響きわたっているのであります。
寿命無数劫、その仏の生命は永遠です。久修業所得、久しく業を修して得たところである。
これは長行の"我本行菩薩道。所成寿命"に当るところです。すなわち題目を唱えたことであります。慧光照無量とは本果になります。久修業所得ということは本因になります。
釈迦の仏法では、久遠実成の釈迦如来での我本行菩薩道といって、修業の時期があったわけです。ところが、これが文底仏法になると、久しく業を修して得たところではない、久遠元初の当初において、大聖人様即久遠元初の自受用報身如来様が、我身地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給うとあります。業を修しておられたとは、南無妙法蓮華経と唱えただけが因となってしまっている。智あらん者は、疑いを起してはいかん、永くその疑いを断てよ、そして、題目を唱えなさいというのです。
36
佛語實不虚。如醫善方便。爲治狂子故。實在而言死。無能説虚妄。
【仏語は実にして虚しからず 医の善き方便をもって狂子を治せんが為の故に 実には在れども而も死すというに 能く虚妄を説くものなきが如く】
(文上の読み方)
通解にあり(22頁下段5行~10行)
(文底の読み方)
仏は決してウソをつかない、大聖人様の仰せには断じてウソはないのです。ただ方便を用いることがあるというのは、良医の譬えのように、狂った子供を治さんがために「お父さんは死んだ」といったように、この世の中に死というものがあるのは方便であります。
実にはほんとうの生命というものは、なくならないのです。実の滅度でない。決してこの仏が死んだということは、ウソをついているのではない、単なる秘妙方便だといっているところです。
(別釈)
支那に史記という本を書いた司馬遷という人がおります。無実の罪で体を斬られたのです。これは有名な人で、漢文をやる人は、この史記を読まなければ漢文をやったことにならないのです。その史記の中に、伯夷・叔斉という人がでています。殷の討王を周の武王が亡ぼしたときに、この戦争の総大将が太公望で、とても偉い人でした。魚を釣りに行くのに、針を伸ばしてしまって、魚がひっかからないようにして釣っている。どうしてかと聞かれて「魚が喰いつくと面倒だ」といったという。そういう面白い男が、参謀になったときに、伯夷・叔斉が、「革命というものはいかん」といって諌め、ついに周の武王が天下を取ったときに、「周の粟は食まず」といって、首陽山という山へ上って、うえ死にしている。
ところが、あるドロボーの親分が、罪のない者を三千人殺している。それで一生涯、酒と肉には事かかずに死んだという。「この原理は如何?」と司馬遷は書いています。伯夷・叔斉は聖人であるが餓死した。ドロボーの親分は罪のない者を三千人も殺して、酒と肉にあきるほど、一生楽しんで死んだ。この原理は、そういう偉い人でもわからなかった。それは、漢学や儒教ではわからない。それは仏法で説く前世の問題であります。
この世で、われわれは大して良いことなんかできるわけはないのだから、題目を唱えていきたいと思う。題目だけは来世にも持ってゆける、金は持ってゆけません。折伏した、その手柄は持ってゆける、それが来世への福運となって現われてくるのです。