妙法蓮華経如来寿量品第十六  自我偈  (5) 本文解釈の32

 

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於阿僧祇劫。常在霊鷲山。及餘諸住處。衆生見劫盡。大火所燒時。我此土安穏。天人常充満。園林諸堂閣。種種寳荘嚴。寳樹多華果。衆生所遊樂。諸天撃天鼓。常作衆伎樂。雨曼陀羅華。散佛及大衆。我浄土不毀。而衆見燒盡。憂怖諸苦悩。如是悉充満。

 

【阿僧祗劫において 常に霊鷲山及び余の諸の住処にあり 衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し 宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に諸の伎楽を作し曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず 我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて 憂怖諸の苦悩 是の如き悉く充満せりと見る】

 

(文上の読み方)

 通解にあり(21頁下段7行~22頁上段5行)

 

(文底の読み方)

 無始無終の御本尊様は、永遠に霊鷲山にいらっしゃる。また余の住処にもいらっしゃる。御本山富士大石寺の奉安殿に、一閻浮提総与の大御本尊様がおいでになりますが、あのところは霊鷲山であります。また余の住所と申しますのは、各寺院、われわれの家に御本尊様がいますのをいい、ここも霊鷲山であります。これを分身散体と申しまして、御本尊様の法体が厳然といらっしゃるのであります。

ここのところは、二重三重の講義になりますから・一しょにしないで下さい。

 衆生が劫尽きて大火に焼かるると見るときも、わが此の土は安穏である。大火に焼かかるという、この大火は煩悩を意味します。煩悩の大火に焼かるるときも御本尊様を持っところは安穏である。天人は常に充満し、園や林やたくさんの堂閣は、種種の宝をもって荘厳している。宝の樹は華や果が多い。そして衆生が遊楽している。さらに多くの天は天の太鼓をうち、常に伎楽をやり、仏や菩薩方の大衆に曼陀羅華をふらしている。天の白い花を曼陀羅華というのです。赤い花なら曼殊沙華です。そして、わが浄土すなわち御本尊様のあるところは()われない。ところが、御本尊様を知らずに邪宗をやっている人は、ことごとく焼けつきてこの世の中は憂いや怖れや多くの苦悩があるところだと思っておるというのです。これは一通りの言葉の解釈です。

 次に、これを一念三千の法門に読む読み方を一ついたします。この大火所焼時から憂怖諸苦悩までは、御本尊様のお姿であり、一念三千の依文になっております。

 これらを図示すれば、次のようになります。

 

   三 世 間

 我此土安穏……国土世間

 衆生所遊楽……衆生世間

 宝樹多華果……五陰世間

   十   界

 散仏及大衆……仏、菩薩(及)

 園林諸堂閣……縁覚

 雨曼陀羅華……声聞

 天人常充満……天人

 憂怖諸苦悩如是悉充満……修羅、餓鬼

 諸天撃天鼓……畜生

 大火所焼時……地獄

 

 また順次に申しあげれば、次のように、なるのであります。

『大火所焼時』これは地獄界を意味しております。これをわれわれの身に当ててみるならば、世間がどんなに困るときでも、御本尊を受持すれば、生命の中に御本尊様が在すことになり、一家中が信心していれば、家庭は我此土安穏の国土となるのです。

『天人常充満』天界のような人、絶えず喜びが顔にあふれている人、静かな人間、その人たちが絶えず充満してなければならない。ところが、反対ですと大変です。カカアはフクれてるし、オヤジは怒ってるし、子供は泣いている。たまに人が入ってくると借金取りばかり。これでは、少しも天人常充満ではないのです。

 われわれの家をよく考えてみよう。天人常充満であろうか。くる人くる人は、良い人ばかりである。サギをしたり、ゴマカソウとしたり、オドかそうとしたり、ケイベツしたりするような、悪い人はこないのです。

 一家の中にはみな、天界、人界の人が、みちみちているのです。

 

『園林諸堂閣。種種宝荘厳』園や林、家や堂閣は種々の宝をもって荘厳されている。この通りよめば、これはちょっと無理です。一体、園だの林だのといっても玄関さえない家があるのです。諸の堂閣なんていっても四畳半しかない人々が多い。いくら御本尊を拝んだからといっても、すぐ堂閣なんかにはならない。しかし、よく読んでみると諦める必要はないのです。住まいに園や林なんかいつでも作れます。どうせ東京の真中で園や林なんか作れるわけがないのですから、ミカン箱を買ってきて、そこヘシキミを一本植えて、脇の方へ、小さいキレイな木を十本か二十本植えて、朝水をやって楽しめば立派な園林です。四畳半といえども我が城なり、大確信の上に立って、宝をもって荘厳する。心の宝をもって荘厳できます。

 壁でも、ネズミに喰われて穴があったら、そこへ石でもつめて、きれいに紙をはれば、立派な宝です。そこら中散らかしておかずに、よく整頓して、畳もきれいにふいて、奥さんの心をもって荘厳するのです。また、今高いのは買えないから、オヤジさんがタバコのむを止めて油絵の安いのを一枚買ってくれば、お父さんの心の宝をもって荘厳したのではないでしょうか。

また、子供が学校で優等な成績をとってきた、それを壁にはって、お父さんとお母さんが楽しむとすれば、それは子供の宝をもって荘厳したのではないでしょうか。

『宝樹多華果』宝の樹は多くの華果を持っている。宝の樹とは、我此土安穏の国家においては、まずオヤジさん、奥さん、それから伜であります。家へ月給を持ってくるオヤジさんが宝樹です。月給も持ってこないで、酒をのんだり競輪をやったりしてるようなオヤジは貧乏の樹というのです。女房に着物の一枚も買ってやれるくらいにかせぎ、借金なんかしないのです。毎月月末に質屋の札を勘定するようでは宝の樹とはいえないでしょう。

 奥さんも同じです。御主人の取ってくる月給だけで、マカナイをして、ヘソクリをきちんと作る、これは宝の樹です。子供は親孝行だ。主人は月給をたくさん持ってくる、奥さんは奥さんでよく働く、それは華や果を持ったということになる。

 この娑婆世界というものは、衆生所遊楽と申しまして楽しむところなのです。しかし、現実は国中が悩みだらけで、楽しめません。そこで大聖人様は、御本尊様を下さって、「しっかりとこれを拝んで、末法は折伏の時なのだから折伏をしなさい。必らず、衆生所遊楽、この世の中を楽しく遊ぶことができる」とおっしゃって下さっているのです。仏様がおっしゃっているのに、この通りにならないわけはない。

『諸天撃天鼓』諸天は天鼓をうつとは、何も、天界の人がきて太鼓をうつことではないのです。われわれがみんな健康で、食べる物もおしい。これは、畜生道だと大聖人様がおっしゃっているが、お腹が滅ったときに、たとえ、まずくても、お新香と御飯でも「ああウマイなあ」というこの境地は、諸天天鼓をうっているのではないか。

 のどの渇いたときに、水を一杯飲む。「ああウマイ」これも同じです。お父さんが、月に一回くらい、焼酎を一合くらいのんで、「ああ、ウマイ、ウマイ」という。この状態が諸天撃天鼓です。

『常作衆伎楽』常に音楽が鳴っているというのは、何もラジオではありません。これはお父さんが帰ってきて「ああ今日は愉快だったよ、こうだよ」奥さんは、「お父さん、今日は、隣の猫がニャンと鳴いたのよ」坊やは「学校の先生が歩いていたよ」そうして、一家が笑いさざめいて暮せるとすれば、常に伎楽を作しているのではないでしょうか。ところが、オヤジが、破れ太鼓みたいな声でドナリ出し、女房がキーキーいって、子供がオーっと泣く、これは、いい音楽ではありません。

『雨曼陀羅華』天から白い花が降ってくるというのは特別収入、ボーナスのようなものです。オレの会社はまずい、まあ五千円もくれるか、なんて思ったところへ、ポンと七千円入ってきたら、二千円だけは雨曼陀羅華です。

『散仏及大衆』特別収入ですから、「ああお山へお参りしようか」と、それは仏に散らしたことになる。また、御本尊様のリンを良いのと取りかえようとか、仏壇を買おうとか、お山に御供養しようとか、それが散仏及大衆です。

『我浄土不毀』そうなれば、わが浄土は敗れないのです。信心する者は、我此土安穏であって、我浄土不毀です。信心しない者は、これと反対に大火所焼時であり、憂怖諸苦悩の世界に住まなければならないのです。信心している者は、絶対に我此土安穏で、我が浄土はこわれない、この確信がなくてはならないのであります。