自我偈  (5) 本文解釈の26,27,28

 

26

爾來無量劫。爲度衆生故。方便現涅槃。而實不滅度。常住此説法。

 

【爾しより来無量劫なり 衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く】

 

(文上の読み方)

 通解にあり(20頁下段7行~11行)

 

(文底の読み方)

 それいらい永い間、無始の昔から、一切の衆生を救わんがために、方便して涅槃を現ずるのだとおっしゃっているのです。涅槃は、その永い間、われわれを救わんがための方便である。生命は永遠であると説きながら、なぜ死ぬかという問題をいっております。

 この方便現涅槃ですが、大聖人様は、生死の理を人人に示さんがために、死を現ずるとおっしゃっています。われわれは死ぬということが方便なのです。真実ではないのです。だんだんとお爺さんお婆さんになる、そして、この世の中で生存する生命力がだんだんと衰えてきて死ななければならない。この前の長行のときに申しましたように、われわれが死なないとしたら、大変に困ることが起るでしょう。死ぬところにいいところがある。

 お爺さんお婆さんになって死んで、大宇宙の生命の中に、われわれの生命が溶けこんでしまう。溶けこむが霊魂ではない。"我"というものが存在する。この我が、いろいろな喜びや悲しみを感ずるのです。業を感ずると申しまして、その結果は、また娑婆世界に、若々しい生命を持って赤ん坊になって生まれてくるのです。ただし、生まれ変るのではありません。

 生まれ変るという言葉は、非常にいけないのです。毎日お線香に火をつけて、御本尊様を拝んでいて、あの長い火が短かく生まれ変ったとはいわないでしょう。生まれ変るのではなくてただ続いただけです。われわれの生命も、現世から来世へ続くのです。大宇宙とわれわれの生命とは即一体です。宇宙というものは、始まった時がない、終りもない。生命も、始めもなければ終りもないのです。永遠に生きてゆくのです。

 過去世に行った自分の行状というものが、自分の生命の中に、全部、含まれてくるのです。ここに仏法の大事さがあるのです。「前にやったことは関係ない。俺は新らしく生まれたのだから」と、こういいたいでしょうけれども、そういうわけにはいかない。なぜ貧乏人に生まれたんだ、なぜ頭が悪く生まれたんだ、こんなに商売を一生懸命にやっているのに、なぜうまくゆかないんだろうかと……みんな過去世にあるのです。過去世にあるが、それをどう打開するかということが大聖人様の仏法なんです。

 生理学上われわれの生命というものは、五年間経つと、目の玉の芯から骨の髄まで細胞が変ってしまうのです。これは今の医学で認めてるところです。だから五年前に借金したのは、払わんでもいいことになるのですが、それでカンベンしてくれれぱよいけれども、借金取りはきちんと取りにくる。過去のわれわれの行動は未来において責任をおわなければならない。

 それは、理窟の上ではわかるが、実際問題としては困る。そこで、大聖人様の仰せには、「お前らは薄徳の人だ。だが、この大御本尊を拝めば、過去世でどんな悪いことをしてあっても、全部許される。そして、善いことをしたと同じ結果が現われる」と。だから信心が大事になってくるのです。

 また大聖人様は、永遠にこの世にあって題目を唱えることをもって、常住此説法といわれております。

 

27

我常住於此。以諸神通力。令顚倒衆生。雖近而不見

 

【我常に此に住すれども諸の神通力を以て顚倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ】

 

(文上の読み方)

 通解にあり(20頁下段11行~14行)

 

(文底の読み方)

 すなわち、われわれの生命の中には、大聖人様即南無妙法蓮華経という仏が住んでいらっしゃる。しかし神通力をもって、仏のお力をもって、顚倒の衆生すなわち、ほんとうに信心をしない者には、近くにいらっしゃっても見えないのです。また此という字は、娑婆世界です。勘忍世界ということで、勘え忍ばなければ生きていけない世界です。

 朝晩に拝む大御本尊は、大聖人様の御生命であられ、この世界におられます。しかし、近くにおられても、しみじみと、仏であらせられる、生きている仏さまであるということが判らない。それを近しといえども見えざらしむといいます。われわれの生命は永遠である。しかし、この世っきりだと思っている、世の中のことをひっくり返して見ている人には、これが判らないというのです。

 御本尊様は紙に書いたものだ、印刷したものではないか。仏様でも何でもないと思う人は、逆さまに見た人であります。寛師様は、「御本尊様をはっきり拝め、この中に仏の姿がありありとお出でではないか」と仰せられております。

 

28

衆見我滅度。廣供養舎利。威皆懐戀慕。而生渇仰心、衆生既信状。質直意柔輭。

 

【衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し 威く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず 衆生既に信伏し 質直にして意柔輭に】

 

(文上の読み方)

 通解にあり(20頁下段15行~21頁上段2行)

 

(文底の読み方)

 ところが、衆生はみな仏の滅度を見て、すなわち、大聖人様が御涅槃になってから、御本尊様を拝むようになったというのです。

 舎利を供養するとは、この仏様の骨についても二通りある。砕身の舎利、全身の舎利とありまして、砕身の舎利とは仏の骨であります。全身の舎利というのは釈迦仏法では、法華経、大聖人の仏法では御本尊様です。これを法の舎利ともいいます。

 また別の見方をしますと、われわれの生命の中に、厳然と仏様が顕われますれば、不幸がないはずです。すなわち、御本尊様を拝んでいるときは、気がつきませんけれども、われわれの生命の中に御本尊様がきちんと顕われていらっしゃる。しかし、不幸の者は、もう仏様が滅度してしまって、おられないと思う。苦しく、悲しくなってくる、貧乏する、辛い、そこで、これはたまらぬ、仏様を拝もうということになる。それが舎利を供養するということです。

 そうして御本尊を供養して、御本尊に対して恋慕の情を抱く、渇仰の心を生ずる。こうなれば大したものです。なかなか御本尊様を恋慕するというようなわけにはいかない。御本尊様が恋しくて渇するように拝むというのが本当の信心です。しかし、イヤだけれども拝まないと罰がこわいから拝む、中には功徳をもらいたいために拝むという人も、だんだんと信心してゆきますれば、しまいに恋慕を抱いて、渇仰の心を生ずるようになるのであります。

 質直というのは正直ということです。正直には世法の正直と仏法の正直との二色ありまして、仏法の正直と申しますものは、御本尊様に背かない心をいうのです。意柔軟というのは、仏に対して、大御本尊様に対して素直になるということです。ただ正直一途に、われわれの頼るのは大御本尊様だけであると信じ、心は御本尊に対して素直になる。ここに功徳が顕われざるをえないというのが、この次の文にあるのです。