自我偈 (5) 本文解釈の25

 

25

所経諸劫数。無量百千萬。億載阿僧祗。常説法教化。無数億衆生。令入於佛道。

 

【経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり 常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ】

 

(文上の読み方)

 これは、仏の生命が永遠であって、たくさんの衆生を、仏の道へ入らしめられたと、一応は読むのです。すなわち文上では、釈迦が寿量品において、五百塵点劫に仏となっていたということを明らかにした以上には、あらゆる仏が釈迦の分身仏になる。宝塔が空に立ったときに、そこにあらゆる十方国土の分身仏を集められて、釈迦・多宝・分身仏が集って、霊鷲山の大儀式を行ったのであります。その集った分身仏というのはことごとく、釈迦自体と同じ人なのです。

 

(文底の読み方)

 すなわち、日蓮大聖人様の御生命というものは、今日昨日に修行してできたものではない。久遠元初の昔から、自分は仏であって、その生命が続いているのである。いっも、この娑婆世界に住して、説法教化をしておったのだというのです。

 すなわち大聖人様の三身即一身、自我得仏来の境涯というものは、この大宇宙とともにあったのだ。決して、今から七百年前に生まれてきて仏になったものではない。比叡山で修行して仏の境涯を得たなどというものではない。大宇宙とともに常住であって、常に説法教化していたのであるというのです。

 末法の御本仏日蓮大聖人様、またの名を久遠元初の自受用身とも申し上げます仏様が、ここに現われますと、あらゆる仏が全部、久遠元初の自受用身の分身仏になってしまう。もうアミダであろうと、薬師であろうと、久遠実成の釈迦であろうと、一切が久遠元初の自受用身の分身仏となる。ですから、あらゆる仏の教化というものは、ことごとく久遠元初の自受用身の教化だということが、決定されるのです。それが今、その永い間、絶えず娑婆世界におって、説法していた。そして、たくさんの衆生をして、仏道に入らしめたとおっしゃる大聖人様のお心のうちは、浄土であるところの娑婆世界に現われた一切の仏は、わが分身でありわが身の垂迹仏である、こういうお心の上において、この自我偈を大聖人様は、お読みになっていらっしゃるのです。

 この分身というのは、どういうことかといいますと、お山の大御本尊様が御中心で、われわれの家に御安置し奉るところの御本尊様は、みな三大秘法総在の御本尊様の分身仏になるわけです。分身仏というものは、御本仏と一切変らない働きをなさるのです。

 この仏法上の意味からいいますと、アミダであろうと、薬師であろうと、大日であろうと、ことごとく久遠元初の自受用身の分身である。分身である以上は、薬師もアミダも、ことごとく、南無妙法蓮華経といわなければ、仏の位置を外されることになる。それが恐いから、彼らは必らず、南無妙法蓮華経ということになっているのです。それを弟子どもが妙なことをいって、ナンマイダナンマイダ、紙屋の小僧みたいなことをいっているから、日本の国にロクなことが起っていないのです。