自 我 偈 (5) 本文解釈の24

 

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自我得仏來。

 

【我仏を得てより来】

 

(文上の読み方)

 この自我得仏来から始まる偈を自我偈といい、非常に有名なる経文であります。

 しかし「我仏を得てより来」すなわち釈迦が仏になってからと一応読むのは、教相の読み方であります。

 

(文底の読み方)

 ところが、日蓮大聖人様の読み方は、自我得仏来の自と得に、丸をつけてもらえばよい、そうすると、自得となります。我仏来が残るのです。我は法身如来、仏は報身如来、来は応身如来の三身如来となります。

 

その三身如来を自ら得たるものなり、自得なりと読むのが大聖人様の読み方になっているのです。

 法身、報身、応身という三身即一身の読み方は、何を意味するのかといえば、法身というのは、仏としての条件を持っている根本の生命をいうのです。報身というのは、仏の智慧をわれわれ民衆に授けられる、その智慧身をいうのです。その仏が末法に日蓮大聖人と現われた姿を応身というのです。

 

 この三身即一の境涯というものは、自ら得たるものなり。仏の境涯というものは、誰びとからも教わるものではないのです。いかに法華経を教わり、また仏法を研究をして、「仏というものを私に教えて下さい」と聞かれても、それは教えられるものではないので、自得しなければならない。

我仏来を自ら得たり、これが仏の境涯です。そこで大聖人様の仰せには、われわれが、観心の大御本尊様に向って題目を唱えておれば我仏来、三身即一の境涯を自得するぞとおっしゃっているのです。それが自我得仏来であります。

 

 即ち図示すれば次のようになります。

 

 

① 我……法身如来

  仏……報身如来   

  来……応身如来

           三身如来……自得

           (無始無終の古仏)

② 自……九 界

  我……仏 界

           十界…本有無作の三身にして来る仏なり

 

③ 自も我も得たる仏来れり…十界本有の明文なり

 

(別釈)

 詳しくは、御義口伝(御書全集七五六頁)によりまして、申し上げてみます。

 

第十一自我得仏来の事

 御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、

我は法身・仏は報身・来は応身なり

此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば則ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり 云云、

 

 この御義口伝は、日蓮大聖人様が日興上人に口伝なさったものです。それを日興上人が書き留めておかれたものです。大聖人様の仏法のうちで、非常に大事なものです。

 

【御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり】

 

 一句とは自我得仏来が一句です。これが三身、法身報身応身をはっきりとされたものである、とおっしゃるのです。

 

【自とは九界なり我とは仏界なり】

 

 自とは九界、我とは仏界。九界は、われわれの普通の境涯のごとく、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道、この他に、声聞、縁覚、菩薩を合わせて九界というのです。我は御本尊様の御境涯。一切衆生を、どうかしてよくしてやりたいという慈悲にみちみちた、そして力のごく強い御生命、これが仏界です。

 

【此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり】

 

 この仏界も九界も、合わせて十界は、本有常住のものなのです。誰が作ったというものではないのです。

これは、自分の生命の中に、永遠の昔から、そのまま存在しておるものなのです。地獄を作りましょう、なんていう人はないでしょう。天界を作ってやろうか、という人もないでしょう、自然に天界が現われる。自然に地獄界が現われる。しかも、どこにあるか判らない。これを本有常住という。この本有常住の三身、仏は、自ら得たものであり、また来った仏である。このように大聖人様はおっしゃっている。

 

 前に小樽問答で、サンザンやられた邪宗身延派では十界勧請ということをいって、鬼子母神や狐などの雑乱物を拝ませていますが、仏教哲学からいえば、とんでもない間違いで、バカの骨頂であります。日蓮正宗の御本尊様は十界互具の本尊というべきであって、断じて、そのほかの本尊は、拝んではあいならんのであります。

 

【自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり】

 

 自も我も、来た仏である。九界そのまま、われわれが本有のものであるということをおっしゃっている。

 

【我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり】

 

 我は法身、仏は報身、来は応身、この三身即一身の仏は無始無終の古仏である。それで仏の境涯は自得のものである。誰かが作ったりするものではない。自解仏乗ともいいます。あるいは、無師智ともいいます。その仏の境涯というものは、誰人から教わるものではない。ですから無師智と申します。

 

【無上宝聚不求自得之を思う可し】

 

 この上もない宝の珠とは何か。日寛上人様は大御本尊なりと決定あそばしております。大御本尊様以外に無上の宝はありません。ですから、無上の宝聚を求めずして得たり、これを思い合わせて考えなさいというのです。

 

【然らば則ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり】

 

 顕本遠寿ということはどういうことか。寿量品といいますものは、永遠の生命観を説くものです。これはあらゆる他の経文にはないというのであります。

 

【今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云】

 

 ですから、われわれが南無妙法蓮華経と唱えるのは自我得仏来の行者であるというのです。すなわち三身即一という無始無終の古仏を、自ら自得なされたのは日蓮大聖人様、ですから、法華経の行者と申し上げます。法華経の行者とは、そのへんにいる、汚ない行者とは違うのです。別しては、仏のことを指すのです。総じては、われわれは大聖人様の子供として、弟子として、家来として、同じく題目を唱える以上には、われわれも、自我得仏来の行者なりということができるのであります。