妙法蓮華経如来寿量品第十六の講義  (5) 本文解釈の23

 

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諸善男子。於意云何。頗有人能。説此良医。虚妄罪不。不也。世尊。佛言。我亦如是。成佛已來。無量無邊。百千万億。那由佗。阿僧祗劫。爲衆生故。以方便力。言當滅度。亦無有能。如法説我。虚妄過者。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。

 

【諸の善男子、意に於て云何、し人の能く此の良医の虚妄の罪を説くあらんや不や。不也、世尊。仏の言わく、我も亦是の如し。成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗阿僧祇劫なり。衆生の為の故に方便力を以て当に滅度すベしと言う。亦能く法の如く我が虚妄の過を説く者あることなけん。爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく】

 

(文上の読み方)

 諸の善男子よ。この良医が、方便を用いた、即ち永遠の生命でありながら、死というものをもって、いろいろ教えて書ているが、それは方便であった。それがウソつきになるかどうか。心でどう思うか。いや、そういうことはありません、仏様よと善男子は答えた。

 そこで釈迦仏は、自分もそのようなものだ。成仏してから五百塵点劫という長い年月が経っているが、衆生に法を説くために、方便の力をもって死ぬということをいったのだ。しかし、この釈迦のウソをせめるものはいないであろう。

 その時に釈迦は、重ねてこの義を説こうとして、次のような自我偈を説いたのである。

 

(文庭の読み方)

 すなわち大聖人様が今から七百年前の仏様だと思っておったのに、実は大聖人様が仏という境涯を得られたのは、無量無辺・百千万億・那由佗阿僧抵劫という遠い遠い昔であったぞというのです。

 これは大聖人様の御言葉通り、われわれ衆生も同じです。無量無辺百千万億那由佗阿僧砥劫だけ生きてきたのです。この肉体のままに生きて行くのです。ですから、衆生を度せんがための故に、方便して死ぬといっているけれども、生命の当然の理諭で、これは法の上において、いつわりをいっているのではないというのです。

 

(別釈)

 このように、自分の生命というものは永遠である。この体のままで永遠に生きるのです。ただ、お爺さんになってから赤ん坊になれませんから、一ぺん死ぬのです。そして、赤ん坊になって生まれてくるのです。生まれ変るのではないのです。ちようど、われわれが赤ん坊のときからこの年まで、ずーと続いてきているのと同じです。途中で、切れたことはないでしょう。

しかし、切れたみたいなときがあります。グッスリ眠っているときは、自分では生命があったのか、なかったのか判らないでしょう。しかし、夜の生命から、朝の生命に生まれ変ったとはいわないでしょう。それと同じで、来世に生命が生まれ変るのではなくて、この生命の続きなんです。たとえてみれば、朝起きて元気ハッラッとして、晩になると疲れてグッスリ眠って、元気をとり戻したみたいに、ずーっと年寄りになって死んで、その生命の続きが今度は赤ん坊になって生まれてきて、またお爺ちゃんになって死んで、また生まれてくる。

 われわれの生命が、この世だけでないから、宗教をヤカマシクいうのです。来世に生まれてきたとき、また四畳半へ生まれてきて、汚い着物を着て、年頃になっても満足な福運もなく、一生貧乏で暮らしたり、病気で暮らしたりするのは嫌です。生まれ落ちると、女中さんが三十人もついて、婆やが五人もいて、年頃になれば、優秀なる大学の卒業生として、お嫁さんは向うから飛びついてきて、良い子供を生んで立派な暮しをして、死んでゆかなければならない。その来世の幸福を願うが故に、今、信仰する。今生もよくなければ来世がいいという証拠にはならない。今生において幸せになるが故に、来世のことも仏さまの仰せ通り、確信できる。安心して信心を続ければ、今生において必らず証拠がでます。

 信心して一年か二年して「まだダメですか」そんなにあわてることはない。六十で死ぬなら、五十五くらいからでもたくさんです。五年間、毎日々々楽しく暮らしたらいいではありませんか。それを三十代から、「二年間やったけどまだダメだ」そうあわてなくてもいいのです。貧乏な味も知っていなければ、楽しみの味も判らない。我慢して貧乏しろという意味ではなくて、必らず証拠がでるのです。信心を怠らず熱心にずーっとやって下さい。いくらやってもやっても、ダメだということは、絶対にありません。断じて、そういうことにならないことを確信しているのです。十年、二十年とやった人は、今まで、みんな幸福になっております。御本尊様の功徳は、脳ミソの中まで変り、頭まで良くなるのです。