妙法蓮華経如来寿量品第十六の講義  (5) 本文解釈の19,20,21

 

19

父見子等。苦悩如是。依諸経方。求好薬艸。色香美味。皆悉具足。擣篩和合。與子令服。而作是言。

此夫良薬。色香美味。皆悉具足。汝等可服。速除苦悩。無復衆患。

 

【父、子等の苦悩すること是の如くくなるを見て、諸の経方に依って好き薬艸の色・香・美味皆悉く具足せるを求めて、擣和合して子に与えて服せしむ。而して此の言を作さく、此の大良薬は色・香・美味皆悉く具足せり。汝等服すべし。速やかに苦悩を除いて復衆の患なけんと】

 

(文上の読み方)

 通解にあり(18頁上段16行~下段8行)

 

(文底の読み方)

 そこで、お父さん、すなわち大聖人様は、われわれ子供らの、かくのごとくドン底におちている苦悩を、ごらんになって、良き薬を与えられるのであります。

「諸の経方に依って」とは釈迦の教えにもせよ、また世の中の教えにせよ、経方は山ほどある。その中から選りすぐったというのです。いらない物をすてて、良きものをとり、色香美味みな具足しているところの薬草をば、ふるったり、すいたりして、その中の、もっとも良き物をもって、子供たちに与えたということはすなわち三大秘法の大御本尊様をあたえたということであります。

 

「而して此の言を作さく」とは、大聖人様の立派な御約束であります。この大良薬は三大秘法の南無妙法蓮華経でありますが色香美味ことごとく具足している。

すなわち南無妙法蓮華経という大良薬には、三大秘法ことごとく具足している。お前たちは、この大良薬をのみ、三大秘法の御本尊様を信じなさい。速やかに、苦悩は除かれて、ふたたび不幸はなくなるだろう、という御約束であります。

 これは御本尊様の功徳を、大聖人様が仰せられているのであります。

 

(別釈)

 ここに色香美味とありますから、これについて、一言申しのべておきます。三学と申しまして、戒定慧ということが、いかなる仏法にもあるのです。これを天台は戒定慧の三学と呼んでおります。

法華経には、色と香と味といっております。

 当門流では、これを虚空不動戒、虚空不動定、虚空不動慧という三学に読みまして、すなわち、これを三大秘法に拝するのであります、本門の題目、本門の本尊、本門の戒壇、これを色香美味と読んでおりますから、そのように注釈をしておきます。

 

 娑婆世界というところは、ほんとうは、われわれが遊びにきたところなのです。楽しむためには、苦しみというものが、ちよっぴりなくては、楽しみの味は出てこない。塩っぱいものがあってこそ、甘いものの味がわかる。甘いものだけではダメです。今の世の中は遊ぶところの騒ぎではないでしょう。苦しみだらけです。たとえていいますと、まんじゅうの甘い餡だといって、ほんとに甘いのなら、いいけれども、塩ばっかりで、それも辛くてくえないような餡だったら、うまいわけないでしょう。楽しみを味わうための苦しみが苦しみばかりになっているこの世の中は、これは苦悩の世界です。

 そこで大聖人様は、この娑婆世界というところは衆生が遊びにきているところだ、それが遊ぶどころでなくて、苦しみ通している、かわいそうだ、助けてやらなければならんといって、御本尊様を持たせて下さったのです。よく考えてみれば、家を出るときには、会社のことを考え、会社では家のことを考え、家にいれば会社のことを考え、いつも追っかけ廻されている。そういう世の中は苦悩の世界であります。

 

20

其諸子中。不失心者。見此良薬。色香倶好。即便服之。病盡除愈。餘失心者。見其父來。雖亦歓喜

問訊。求索冶病。然與其藥。而不肯服。

 

【其の諸の子の中に心を失わざる者は、此の良薬の色・香倶に好きを見て即ち之に服するに、病悉く除こり愈えぬ。余の心を失える者は、其の父の来れるを見て、亦歓喜し問訊して病を治せんことを求索むと雖も、然も其の薬を与うるに而も肯て服せず】

 

(文上の読み方)

 通解にあり(18頁下段9行~16行)

 

(文底の読み方)

 そこで、子供らの中の心を失わない者は、このお父さんの出した色も香もよき薬を飲んで、病がなおったというのです。すなわち日蓮大聖人様がわれわれに賜わったところの三大秘法の大御本尊様をすみやかに信じて、今までの悩みが、すっかりなくなったというのです。

 ところが、もう一組の心を失った者は、お父さんに会って歓喜し、いろいろ問うて、病気をなおしてもらいたいといっておりながら、この薬をあたえてもあえて飲まないのです。すなわち折伏をうけても反対する人です。心では大聖人様はありがたいと思っている人もあるのです。そして自分は何とかよくなりたい、こういう悩みの世界から離れたいと思っておりながら、あえて信心しないのです。実に困ったものです。それは、どういうわけか、その次に説かれております。

 

21

所以者何。毒氣深入。失本心故。於此好。色香藥而謂不美。父作是念。此子可愍。爲毒所中。心皆顚倒。雖見我喜。求索救療。如是好薬。而不肯服。我今當設方便。令服此薬。即作是言。汝等當知。我今衰老。死時已至。是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差。

 

【所以は何ん、毒気深く入って本心を失えるが故に、此の好き色・香ある薬に於て美からずと謂えり。父是の念を作さく、此の子愍むべし、毒に中られて心皆顚倒せり。我を見て喜んで救療を求索むと雖も、是の如き好き薬を而も肯て服せず、我今当に方便を設けて此の薬を服せしむべし。即ち是の言を作さく。汝等当に知るべし、我今衰老して死の時已に至りぬ。是の好き良薬を今留めて此に在く。汝取って服すべし、差えじと憂うることなかれと】

 

(文上の読み方)

通解にあり(18頁下段16行~19頁上段終行)

 

(文底の読み方)

 なぜ信心する気にならないのか。それは邪宗の毒が深く入って、本心を失っているが故であります。この大良薬である三大秘法の御本尊様を、決して良いとは思わないのです。折伏をしても、かえって悪口をいって、信心しないのです。そこで大聖人様が心に思われるには、この子あわれむべし、信心をしない者はあわれむべし、本当にはがゆいように思われるのです。何にもいわずに、御本尊を拝んでさえいれば、そして素直な気持で折伏さえしておれば、必ず家庭は良くなる、金もできる、はっきりいえることであります。

 そして、信心できない者は、邪宗の害毒が身にしみこんでいて、心が狂っているのだ。どうにかして幸福になりたいと思いながら、三大秘法の御本尊様を拝もうとしない、と大聖人様は悲しまれるのであります。

 そこで、どうにかして救ってやろうと思われて、次のように説かれたのであります。

 ところで、仏の生命もわれわれの生命も永遠であります。永遠ではありますけれども、一応、生死の理によって、死という現象を現出しなければならない。

よって大聖人様も、生死の理によって御年六十一歳をもって亡くなられているのであります。

 

 大聖人様のおっしやるのには、「よく聞きなさい。今自分は衰えて、死の時がすでにやってきた。この三大秘法の大御本尊を、今留めて、この日本国におく。この御本尊を信じなさい。どんな悩みも解決しないことはない」と。

 

(別釈)

 ところで、この今留在此ということが問題であります。これは教相の上からいいますと、われわれの仏性の上におくと天台はいっております。しかるに大聖人様は御義口伝に明らかにされて、今留めて此に在くの此という字は、日本国なりと読めとおっしゃっております。これを深く考えれば二つの意義があります。

 総じていいますれば、この南無妙法蓮華経の七字といいますのは、大乗の国の日本民族でなければ、わからないということをおっしゃっているのです。南無妙法蓮華経という文字は、ただの七字でありますけれども、この極理を読み切り、そして深淵なるこの哲理に理解あるところの民族は、日本人以外にはない故に、これを留めて日本国におくと、おっしゃっているのであります。

 もう一つは、この仏法は日本から朝鮮、支那、印度へと渡って行く仏法である。ですから、今留めて此に在くというのを、日本におくとおっしゃるのです。私に会通を加えさしていただきますならば、今留めて此に在くとは、すなわち日本国の中でも、静岡県富士郡上野村富士大石寺におくと読みます。今富士大石寺の奉安殿に祀られています大御本尊は「今留めて此に在く汝等取って服すベし、差えじと憂うることなかれ」と大聖人様がおっしゃったと読むべきであります。