15

若見如來。常在不滅。便起憍恣。而懐厭怠。不能生於。難遭之想。恭敬之心。是故如來。以方便説。

比丘當知。諸佛出世。難可値遇。

 

【若し如来常に在って滅せずと見ば、便ち憍恣を起して厭怠を懐き、難遭の想・恭敬の心を生ずること能わじ、是の故に如来方便を以って説く、比丘当に知るべし、諸仏の出世には値遇すベきこと難し】

 

(文上の読み方)

 もし釈迦が常にこの世に生きていて、人人が仏の教えはいつでも聞かれるからと思えば、わがままな心を起し、まじめに修行しようとする気持がなくなってしまう、また仏にたいする、ありがたい思いや敬う心はなくなってしまう。

 この故に釈迦は方便を用いて生死を説き、あらゆる仏にあうのはむずかしいことだと説くのであります。

 

(文底の読み方)

 もし大聖人様が常にこの世におわしますとするならぱ、わがままな心をいだき、仏法をおこたりきらう気持を生じ、大聖人様にあいがたい思いや、大聖人様を、恭敬する心を生じない。いつまでも大聖人様を凡夫であると思って、その御命令もきかなくなるであろう。

しかして、大聖人様が御本仏であることも永遠に知ることができず、仏道修行もせず幸福になれなくなる。

故に大聖人様は生命の本理に合して涅槃をされた。

日蓮大聖人門下は、大聖人様の御出世がなければ仏の境地をうることができない。しかして大聖人様の出世には、あいがたいのであると説かれるのである。

 

(別釈)

 これは一応と再応に読みわけなくてはならない。一応大聖人様が今お出ましされたとするならば、われわれは絶対的に歓喜の心をおこして、何でもいうことを聞くと思うのであります。

 しかしながら、大聖人様御在世当時の人たちは大聖人様をどのように思ったであろうか。着られたものは木綿の粗末な糞衣、安いものを召しておられる。一度口を開けば邪宗に執している人たちの耳にさからう強言を、づけづけといわれて折伏なさる。住まわれる家といえば、われわれでも貧乏な方の部類に入るみすぼらしい小屋、お食事だって人一倍お質素なもの、それで少しは偉いと思う人がいるかもしれないが、少しも尊敬する気持を起す人がいないではないか。

 仏にあうことは、非常に難しいことである。故に恭敬の心をおこすのであります。われわれは大聖人様にお目通りできたら、何たる喜びであろう。しかし、おあいできない悲しみは、これほどのものはない。しかし、幸いにも大聖人様が南無妙法蓮華経と唱えられて七百数年目の現在、大御本尊様にお目にかかって、広宣流布途上にある、わが身の幸いを、心から喜ばざるをえないではないか。

 また立場をかえて、われわれの生命が、常在にして滅せずとみるならば、窮屈な自己向上につとめるわけはないから、ひどい状態になるのです。しかし、死という問題があります。これによって、生命を大事にし向上心もおこるのであります。人間に生れることはむずかしい故に、生をうけた、この生命を粗末に扱っていいだろうか。

 また、このわれわれの生命の中には南無妙法蓮華経という仏界がある。その仏界も見ることなくして、そのまま死んで行ってしまうとは、哀れなものです。わが生命を尊しと思うならば、わが生命の中にある仏の生命にあいあわなければならない。わが生命の中にある如来こそ、大聖人様であります。

 

 しかして大聖人様のあらわされた大御本尊様を信じてこそ、われらの仏の生命が、あらわれるのであります。故に、仏法にあうことはかたく、仏法の中でも正法にあうことは、またかたく、正法の中においても、この大御本尊様にあうことは特にかたい。この正法中の大正法であります。大御本尊様にお目にかかれた、わが身の福運を感ずべきであります。

 

16

所以者何。諸薄徳人。過無量。百千萬億劫。或有見佛。或不見者。以此事故。我作是言。諸比丘。如來難可得見。斯衆生等。聞如是語。必當生於。難遭之想。心懐戀慕。渇仰於佛。便種善根。是故如來。雖不實滅。而言滅度。又善男子。諸佛如來。法皆如是。爲度衆生。皆實不虚。

 

【所以は何ん。諸の薄徳の人は無量百千万億劫を過ぎて、或は仏を見るあり、或は見ざる者あり。此の事を以ての故に我れ是の言をなす。諸の比丘、如来は見ることを得ベきこと難しと、斯の衆生等是の如き語を聞いては、必ず当に難遭の想を生じ、心に恋慕を懐き、仏を渇仰して便ち善根を植ゆベし、是の故に如来実に滅せずと雖も而も滅度すと言う。又善男子、諸仏如来は法皆是の如し、衆生を度せんが為なれば皆実にして虚しからず】

 

(文上の読み方)

 通解にあり(17頁上段13行~下段14行)

 

(文底の読み方)

 なぜかといえば、われわれ末法の徳分の薄い者は、無量百千万億劫の間、大聖人様にお目通りできる者あり、できない者もある。たとえ大聖人様がおいで遊ばしておられても、われわれが人間として生れ合せない場合もある。故にわれわれが大御本尊様にお遭いするということは、宿縁が非常に深いことがわかるのであります。

 その故に大聖人様は、次のように、仰せ遊ばされているのである。多くの末法の衆生よ。仏には実にあいがたいのであると。そこで末法の衆生は、このお言葉をきいて、なかなか仏様にはあえないのだという思いを起し、心には大聖人様をお慕いする心を抱いて大聖人様を渇仰するのであります。そして大聖人様にあえない者は、大聖人様の御生命であられる、末法のわれわれに残しおかれた大御本尊を渇仰して、折伏を行ずるのであります。

 この故に、大聖人様は生命は滅しないけれども、生命原理において滅度があるとお説きになられたのであります。大聖人様は形の上では滅すといえども、大聖人様の御命、一念三千の仏界というものは、厳然として大宇宙に存在しております。涅槃という姿を示すにすぎないのであります。これ本有の涅槃であります。

末法の衆生よ、あらゆる仏も、みな本仏より迹をたれられた迹仏であるが、やはり大聖人様の仰せのごとく、滅度をとられ、衆生を救われるのであるとおっしゃっているのです。これはみな、真実でいつわりではないのであるぞということです。

 

(別釈)

 われわれの生活は貧乏で悩み、子供のことで悩み病気で悩み、不幸な生活の人のみであります。これをどうしたら救えるかと、心を砕かれ、悩まれ、日夜に化導されているのが、御本尊様の御精神であります。

 故にその仏、御本尊様にたいしては、恋慕をいだき渇仰の心を生じ、本当にしたわしいという心がなければ、その人の信心はおかしいといえましよう。

 「今朝、お経を上げてこないから、罰が出てこないだろうか」とか、「やらなければ、何だか班長に文句いわれるから」とか、そんなことではダメなのです。

加えるに善根をうえ、すなわち折伏を行じ、これからの僅か二、三十年あるいは四、五十年の短い生活の間を何千万年、何百万年にも一度、おあいしがたい大御本尊にお目にかかれた喜びで暮していけることを感謝し、誇りをもって行きたいと思うのであります。恋慕といい、渇仰といい、あくまで御本尊様中心でいきたいものであります。