(5) 本文解釈の8

 

08

諸善男子。若有衆生。來至我所。我以佛眼、観其信等。諸根利鈍。随所應度。處處自説。名字不同。年紀大小。亦復現言。當入涅槃。又以種種方便。説微妙法。能令衆生。発歓喜心。

 

【諸の善男子、若し衆生有って我が所に来至するには、我仏眼を以て其の信等の諸根の利鈍を観じて、度すべき所に随って、処処に自ら名字の不同・年紀の大小を説き、亦復現じて当に涅槃に入るベしと言い、又種種の方便を以て微妙の法を説いて、能く衆生をして歓喜の心を発さしめき】

 

(文上の読み方)

 ところで、あなたは久遠のときより仏であった、それからその中間においても仏であり、また今日も仏である。しかるに、なぜ、その仏にいろいろの違いがあるのか、こういう問題であります。三世十方の諸仏を眺めるのに、この仏土においては、こういう仏がある、また、説く経も、あなた御自体にしても、阿含を説き、方等を説き、般若を説き、華厳を説き、法華経を説く、そういうふうに差別して説かれるゆえんはどこにあるのか。

 こういう問題にたいして、もし衆生あって、その衆生が、然燈仏であったときにもせよ、その前の仏であったときにもせよ、あるいは釈迦のときにもせよ、そのみもとに衆生が集まってくる。

 

 すなわちこれを感応の原理と申しまして、仏法では経典の一番最初に「ある時仏○○にいましき……」という言葉があるのです。それを一時と書いてあります。それを日本の訳者はある時と読ましている、ちょうど、お伽話の昔々みたいですね。しかし、この一時という意味は、そうではないのです。いかなる一時と申しますれば、衆生が仏を感ずる、指導者を欲する、それに応じて仏が出現する、これを感応と申しますが衆生の機根に感応して仏が出現する時を、一時といいます。若有衆生来至我所というのが、これと同じ意味でありまして、仏がこれに応じて種々の衆生の信等の諸根の利鈍を見ると。

 

 この利鈍も教相の上においては、いろいろと説かれております。すなわち、鈍とは人・天の根、利とは二乗の根、という意味に説いている人もあります。この衆生の信等というのは、仏教では、われわれの生命を種種に範疇を立てております中に、われわれの生命には信ずる力を持っている、これを信根といい、智慧の力を持っている、これを慧根といい、それから、精進根といって、物事に熱心に集中してゆく、定根といって静かに一所に心をとどめておける力、念根と申しまして、念ずる力、その五根の利鈍をいいまして、これを機根と申しますが、それに応じて、どのようにして救っていけばよいかと考えて、その方法にしたがってこれを説いてゆく。そういうふうに仏の力を、衆生によって違えてきたのだというわけです。

 

 そうして、現われる仏の年紀の大小、名字の不同とは、そこに現われている衆生の信等の利鈍に応じて現われる仏でありますから、名前も違ってくる。たとえば、大通智勝仏とか、釈迦如来だとか、いろいろ違う。また、何年その仏法の功徳があるか、わが仏法の正法は何年間、像法は、何年間、たとえば、釈迦の正法は一千年、像法は一千年、二千年をもって釈迦如来という方の仏法は終るわけです。いろいろな衆生の機根に応じて衆生を救うのが目的で、仏の名前も、年紀もいろいろ違いがあったが、もともとは五百塵点劫という時の一仏の働きであるといっているのです。

 そして名字の不同、年紀の大小を説いた仏も、まさに涅槃に入るといって、一応は死んでいるのだといっております。これ衆生を利益するための方便であります。

 また、種々の方便をもって、微妙の法を説いて、信心の心、歓喜の心をおこさしめるのであるといっております。

 

(文底の読み方)

 御本尊様の前へ、われわれがまいりますと、われわれの信等を観じられて、われわれの信心を考えられてそうして、度すべきところに随って、どうやったらこれがよくなるか、というお考えのもとに、大きな慈悲を下さるのです。これが大御本尊様のここに現われているお言葉になっているのです。ですから大聖人様は「信心をしないで、功徳を受けられないからといって日蓮が罪にはあらず」とおおせられています。

 大聖人様におかせられては、涅槃に入らせられ、われわれのために、大御本尊様をお残し下さった。これは、まことにありがたいことであります。生きていらっしゃるときには日蓮大聖人と仰せられ、亡くなられては一閻浮提総与の大御本尊と仰せられる。これ名字の不同であり、年紀の大小であります。これは仏の正体であります。

 

 文底深秘の大法においては、この涅槃は、永遠の生命でありながらなぜ死ぬかという問題になる。死ぬのは十界常住本有の姿であると説かれるのが、大聖人様の仏法でありますが、ここで死ぬということが、もっとも不思議なことなのです。仏法の解決すべき問題の最後は死の問題であります。これを、もっとも根本的に説き明されているのが、日蓮大聖人様の仏法であります。

 

 あらゆる仏は、釈迦であっても、あるいは正像の仏であっても、権大乗の仏であっても、仏はみな微妙の法を説いて、歓喜の心を起さしてくれるのであります。それなら、どの仏でもいいかといいますと、時というものがありまして、時によって、みな歓喜の心を起させてくれる仏が違うのです。今、釈迦仏が、かりにここに現われたとしましても、われわれを歓喜させてくれる力はありません。

 ところが、大聖人様は末法の御本仏でいらっしゃいますから、大御本尊様を、われわれのために建立遊ばされて、われわれがこの御本尊を拝むときに微妙の法を説いて下さるのであります。微妙というのは、われわれでは、どうして功徳の現象が起るのか、どうして幸せになるのかわからないのです。そのわからない妙な方法によって、大御本尊様は、われわれに喜びの心を起さして下さるというのです。

 

(別釈)

 御本尊は度すべき方法を全部お知りあそばされており、われわれに慈悲をたれて下さるのであります。ですから、われわれが、五座三座のおつとめをきちんとやって、折伏を行じて、純心に御本尊様を信ずるならば、絶対に不幸になるはずはないのであります。

 それなら、信心していれば、寝ていても商売繁盤するかという人もあります。そんなわけはないではないか。商売は熱心にやらなければならない。「法華を識る者は世法を得可きか」の文を都合よく読み熱心に商売をやらないで、金もうけをしようとしても、図々しいです。

 

「それでは絶対の功徳なんていえない」なんていっても、それは無理な話です。釜の中へ米を入れて、それで南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えても、御飯になりません。それと同じなのです。折伏ばかりしても、商売が不熱心ですと罰をうけます。大聖人様のお言葉の中に、「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」という御文があります。勤めをするのですから、宮仕えでしょう。勤めをすることが法華経だというのです。

商売をすることが、信心なのです。その信心を止めてただ、御本尊様を拝んでも、それはダメです。

会社へ行って、一生懸命かせいでいる。月給をくれる日に、庶務裸なり会計課なりに、断然、金をもらいにゆかないと決めたなら、金が入ってきますか。いくら金を渡したくても、渡す道がないではないですか。それと同じです。くれる穴をふさいでしまっているのです。やはり商売は熱心に利口にやらなければならない。

 

「法華を識る者は、世法を得可きか」ということは、信心をする者は、こうやったら商売がよくなるか、こうやったら病気がなおるということが、わかってこなければいけないのです。信心すれば、世法のことに明るくなって、いつまでも、世間的にも馬鹿ではなくなるのです。

 

 次に、御本尊様はわれわれに歓喜の心を生じさせるとあります。ですから、われわれの心に、「御本尊様はありがたい」という心が、いつも起るようだといいのです。しかし、人間というものは、なかなか慾の深いもので、ことに、新らしく信心した方は、すこぶるそうなのです。御利益のときだけ「ありがたいつ」他のときは「お勤めだから、やらないと罰が当るし、御利益が出なくては困るから」という、御義理の形式だけの信心の方がおります。それでは困ります。御本尊様を毎日、「ほんとうにありがたい、容易におあいできない身でありながら、こうして、おあいできたのはほんとうに嬉しい」という、御本尊によって、歓喜の心を生ずるようでありますと、ほんとうは功徳が早いのであります。しかし、こればかりは「それ、歓喜々々」なんていっても、出てはこないのです。「歓喜を起せといったから、さあ喜んでやろう、さあ喜んでやろう」といったら、お勤めで足が痛くなってしまって「まだ終らないか、ああ歓喜々々」それでは歓喜になりません。一日も早く歓喜の心を起すようになりなさいと思うのであります。