(5) 本文解釈の7

07

諸善男子。於是中間。我説然燈佛等。又復言其。入於涅槃。如是皆以。方便分別。

 

【諸の善男子、是の中間に於て我然燈仏等と説き、又復其れ涅槃に入ると言いき、是の如きは皆方便を以て分別せしなり】

 

(文上の読み方)

 次に重ねて疑いを晴らさんがために、その中間における姿を説いております。釈迦仏法においては、釈迦が一番最初に仏になった大昔のことを、久遠といいます。印度の釈迦のときのことを、今日といっております。その中間のことを、中間と申します。ですから、御書を読みますときに、今日という言葉がありましたら、今の現在という意味に読み違えないようにしていただきたいのです。

 

 その久遠のときと、今日との中間において、然燈仏等と説き、然燈仏と自分の関係を説いたことがある。また然燈仏として涅槃をした。これも人々の機根にしたがって、方便の教えを分別して説いたというのです。

 この然燈仏について一言申しあげますれば、この法華経の序品におきまして説いてありますが、日月燈明仏という仏が、何代も何代もあった。ところが、最後の日月燈明仏のときに、まだ仏にならぬ前に、八人の子供がおられた。この八人の王子が、自分の父親が仏になったというので、すなわち、そのみもとへ来至して、八人とも仏法を修業した。そのときに、日月燈明仏は、眉間から白毫の光を放ち、天からは花が降ってき、地は六種に震動した。

 なぜこういう話が序品に出たかといいますと、序品の最初に、八万の大菩薩や、万二千人の声聞衆、その他のあらゆる衆生が、釈迦仏のもとへ集まった。ところが、天からは曼茶羅華が降ってき、地は六種に震動し、また眉間の白毫の光を発している。これを此の土の六瑞、他の土の六瑞と申しますが、これは一体どういうわけであろうかと、みな不思議に思った。それを代表して、弥勒菩薩が、文殊師利菩薩に向っていいますのには、「君は、ずいぶん、あらゆる世界におられた人だから、こういう事件を知ってはおらないか。こういう事件にぶっかったことはないか」と。

弥勒菩薩は一生補処の菩薩であります。釈迦の滅後においては釈迦仏法をつぐ人です。五十六億何年間とか兎率(とそつ)の内院におって待ってるそうであります。そのとき文殊が日月燈明仏のときの話をしだしたのです。

 あたかも、そのときに、日月燈明仏が、名づけて、大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念という経文を説かれるときに、こういう姿があったから、今度も必ずや大乗経の仏所護念・教菩薩法・菩薩を教える法と名づけるところの妙法蓮華経という経文をまさにこの仏も説くのであろうということを文殊がいいだすわけです。

 仏所護念については、後で重ねていいます。この八人の王子が仏道修行した話をしましたが、その後に日月燈明仏は妙光菩薩という菩薩に妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念という経を説いたのです。仏の死後、妙光菩薩はこの法華経を八人の王子に説き最後に仏になったのがこの然燈仏です。この然燈仏は今の釈迦として出現し、妙光菩薩は文殊菩薩として出現したというのです。

 このように然燈仏や儒童菩薩として、釈迦の修行の因位を明かしてあるが、それはみな中間であるぞ、今日からみれば中間に当るのだぞと説いているのです。

そのようにして自分は、永遠の生命でありながら、仏になる因位をいろいろな形で示して、また、涅槃に入るといって死んだのだというのです。そのようにしたのは、みな生命の実相であるし、また仏がその生滅を明かして、衆生を救う方便としたのであると断言したのです。

 最初には、これは経文の形からいきますと、本地を顕わすわけです。過去の仏について、まず本地を説明したのです。それはことごとくみな自分であり、みな自分の仕業なんだと、仏の因位を示したにすぎないのです。思いきっていうならば、然燈仏といえども、また、儒童菩薩という姿に現われようと、また、釈迦如来と現われようと、これ一仏の所作である。久遠実成の釈迦如来、一仏の所作が、あらゆる分身として現われて、みなを指導してきたのだというのが、教相の読み方の根底です。

 

(文底の読み方)

 これを今度は、大聖人様の内証の寿量品として拝読いたしますときには、然燈仏も釈迦仏も、あるいは大日如来もアミダもことごとく、久遠元初の一仏、自受用報身如来と読まなければならなくなるのです。

文底から見まして、南無妙法蓮華経という境涯からこの経文を見ますと、この久遠実成の仏の前に、久遼元初の自受用報身如来という仏さまがいらっしゃる、また、南無妙法蓮華経仏ともおっしゃる。

その仏さまから見ると、あらゆる仏が分身仏になる。そうして、この分身には、生死の問題はあるけれども、みんな仏というものは、永遠の生命を持っている。こういうふうに読まなければならない。

 

 ですから、われわれも、久遠元初の自受用身の仏の子供なのですから、われわれも永遠に、涅槃を現じてまた生まれてくる、また死んでまた生まれてくる。永遠に、娑婆世界に生まれてこなければならない、それが生命の本質なのです。

「この世だけではないのなら、まあ、来世でしっかりやろう、この世は遊べるだけ遊んで、来世でかせごう」なんて考えてはダメです。その来世がこわいのです。

 

(別釈)

 立ち返って、前の大乗教・仏所護念・教菩薩法と名づける妙法蓮華経を説くと、序品でいったとありますが今の邪宗の仏所護念会とか、霊友会とか立正交成会あたりで、仏所護念と使う言葉は、ここから出ているのです、それ以外には、仏所護念という言葉は、無量義経の中に、無量義をもって仏所護念と説いているところがあります。

仏所護念というのは、いつも同じことをいうようでありますが、仏の護念したもう所とは、死んだ仏が護り念じてくれるというふうに、今の邪宗教は読ましている、これはヒドイ読み違えで、そんなバカな話しはないのです。これは、死んだ人が護念してくれるという意味ではなくて、三世十方の諸仏が、護り念じてきたところの妙法蓮華経というものを説く、護り念じてきたところの本体は、妙法蓮華経であるということです。それをトンデモナイことに使っている。

それが邪宗教の教義の実体です。

 

 次に法華経の序品には、前にのべたほかに、妙光菩薩が法華経を説いて、日月燈明仏の八王子を化導したとき、求名という人がいた。求名は、勉強は少しもしないで、何を教えてもすぐ忘れてしまって、金もうけと、名誉心があって、ふつうの人の家へ出入りばかりしていた。ただ求名は、折伏をしておった。不思議なことには、妙光菩薩は、法華経の縁によって、また法華経の会座に連なって、文殊菩薩といい、そのとき求名は、弥勒菩薩となって、みんな法華経の会座に連なった、ということが説かれている。

 

「今、折伏しておきなさい」というのはこの原理なのです。折伏しておけば、その人とまた一緒になれるのです。折伏すると、サッパリ相手がいうことをきかない、誰も「すぐ信心しましょう」とはいわない。しまいには、悪口いわれたり、文句いわれたりしなければならない。ところが、その反対した人は、この次に折伏した人と必らず一緒に生まれてくる。

 

 折伏した人はこの世で、信心をしっかりやりきるのですから、来世には、運勢がいい、商売もよくやっていけるし、体も丈夫だ。そうすると、今世で折伏していうことをきかなかった人が、また、一しょにでてきている。しかし、どこにいるのかわからない。女中になって、折伏した人の家にいるものやら、あるいは運転手になってくるものやら、あるいは近所にいて病気しているものやらわからない。しかし、もう一度、折伏されるような機会が必らずでてくるのです。折伏されて、今度はマジメに信心するようになるのです。

 

 ずいぶん手間のかかる人です。だから、奥さんや、子供は、必らず折伏しておきなさい、奥さんが信心したら、亭主は必らず折伏しておきなさいというのです。そうすると、また同じときに生まれてきて、めぐりあうことができる。そうしないと、かわいい子供だと思っていても、この世で別れたら永遠にあえない。

子供が生まれたときには、自分は生まれておりませんし、自分が生まれたときには、子供が出てこない。ですから、必らず、一家中、信心させなければならんと思うのであります。

 ところが、ある奥さんが「それでは、今の亭主と、また一緒にならなければならないのですか。もうコリゴリしているのですけれども」しかし、前世で夫婦だったから、また一緒に夫婦になるかということは定まらない。おじいさんになるか、おばあさんになるか、友だちになるか、あるいはまた、商売上の実によい取引相手になるか、それはわからない。