(5) 本文解釈の5、6
05
爾時佛告。大菩薩衆。諸善男子。今當分明。宣語汝等。是諸世界。若著微塵。及不著者。盡以爲塵。一塵一劫。我成佛已來。復過於此。百千萬億那由佗。阿僧祗劫。
【爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に汝等に宣語すべし。是の諸の世界の若しは微塵を著き及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由陀阿僧祗劫なり】
(文上の読み方)
そこで仏が、はっきりさせるために、大菩薩衆に次のようにいわれるのです。もろもろの善男子よ。今、明らかにお前らに宣言しよう。この無量無辺という世界がある、その微塵をおいたものも、おかないものも全部の国を集めてきて、それをまた塵にしてしまいなさいというのです。そうして、その一粒を一劫、八百万年と計算せよというのです。塵を著いた国ですら計算できないというのですから数学では出ません。その時間よりもまだ、百千万億那由佗阿僧祗という前に、自分は仏になっておったのだというわけです。
釈迦がインドで仏になったのだと思っておったのに、釈迦はインドで仏になったのではない、計算ができないほどずーっと昔に、釈迦は仏になっていたのだと宣言したのであります。五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界とか、五百千万億那由佗阿僧祇の国等と、五百々々とありますから、この永い時間を五百塵点劫と仏法上いっております。
(文底の読み方)
それで、この五百塵点劫に仏になった釈迦如来を、先ほど申しましたように、久遠実成の釈迦如来、または文底仏法の立場から、これを第一番成道の釈迦如来といっております。大聖人の仏法からいいますれば、五百塵点劫の当初という時代がある。南無妙法蓮華経という仏様は、五百塵点劫の当初、無始無終という時に御出現になったのであります。ですから、この本門の文上の仏といえども、久遠元初の自受用報身如来の迹仏ということになるのであります。第一番成道は日蓮正宗の立場からいえば、迹仏の成道になるのであります。
(別釈)
その久遠元初の自受用報身如来さまが、釈迦がこの寿量品を説き、さきほど話した従地涌出品のときには、地涌の菩薩となって現われ、末法には日蓮大聖人様となって現われたもうたのであります。そして、大聖人様の仏法を信じたものは、ことごとく地涌の菩薩であり、久遠元初の自受用報身如来の眷族なのであります。ですから、われわれが、南無妙法蓮華経と御本尊様に向って唱えるときに、われわれのこの体、そのまま、大御本尊と同じうすることとなり、尊い生命になるのであります。
故に、三世十方の仏菩薩・梵天・帝釈・鬼子母神等、あらゆる者がきて、われわれを護ることになるのです。もし護らなかったらば、梵天ともいわせません、帝釈ともいわせません。正法を弘める者を護るとは、仏にたいする彼らの約束なのです。末法において、無始無終の大生命たる大御本尊様と、われわれの肉体とが一緒になったとき、梵天、帝釈は、かならず護りにくることになっているのです。護らなかったら、つかまえて飛んでもない目にあわせてやればいいのです。
祈りというものは、ここまでいかなければいけません。「梵天・帝釈なにをボヤボヤしてるのだ。私が困っているじやないか。早くわれを助けよ!」といえばよい。それを、題目も満足に唱えないで、折伏もしないで、そんなにイバっても、もちろんダメです。折伏もきちんとし、信心もやって、それでも自分の商売が思うようにいかなかったら、梵天・帝釈を呼びつけて、叱りつけてやればよいのです。必らずいうことを聞きます。
それぐらいの、信心にたいする大確信がなければなりません。
06
自従是來。我常在此。娑婆世界。説法教化。亦於余処。百千萬億。那由侘。阿僧祗国。道利衆生。
【是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す、亦余処の百千万億那由侘阿僧祗の国に於いても衆生を導利す】
(文上の読み方)
われわれは、今これを聞いてもびっくりしません。
――なぜかといいますと、仏法を知らないからです。
阿含・方等・般若・華厳と説いてきた釈迦の仏法で、このように説かれますと、驚かざるをえないのです。五百塵点劫の昔よりこのかた、釈迦は娑婆世界にあって説法教化したというのです。今までは、仏が婆婆世界にはいないことになっていたのです。
娑婆世界というのは、堪忍世界と訳します。辛棒しなければならないところの世界といういみです。堪忍世界は汚れた土であるから、仏はおらないという学説でおしきったのです。すなわち東方に薬師如来がいる、南方には善徳仏がいる、西方にはアミダ仏がいるといって、他の十方浄土には仏がいるが、娑婆世界には仏はおらないと、寿量品以前までは説いてきたのです。
また、釈迦は、娑婆世界だけではなしに、よその百千万億那由佗阿僧祗の国々においても、衆生を導き、利益してきたのだと、本地を明かしたのであります。
故にアミダ仏、善徳仏、薬師仏などは、その本地の分身仏になってくるのです。
すなわち、前に無量義経において、分身散躰の利益を説いて、ここへきて、あらゆる国の衆生を導利したということは、みな我が分身である。自分であるといいきったわけです。ですから、法華経へきて法華経以前の仏教がひっくりかえってしまったわけです。大聖人様も、「一仏二言水火なり信じ難い」と仰せられていますけれども、それほど、この法華経というものは徹底しているのです。前の爾前経は、ただ誘いであり能通・法用の方便を説いているのです。ところが、この法華経へくると、秘妙方便を明かし、釈迦自体が久遠の本地を明かして、あらゆる仏はみなわが分身仏だと断言しているのです。
これ文上教相の所談であります。
(文底の読み方)
久遠の無始いらい、御本仏、日蓮大聖人様が、常にこの娑婆世界でも、他のあらゆる国土でも、仏法を説いて、衆生を利益してきたのであります。
教相の仏法の原理は、そのまま観心の仏法に用いられてくる。そして、久遠元初が明らかにされたときにあらゆる仏法の哲理は、久遠元初の仏法の哲理になるということに変ってくるのです。
久遠元初の自受用報身如来が現われれば、あらゆる仏は、久遠元初の自受用身の分身仏になるのです。みな南無妙法蓮華経から出生した仏になるのです。
また、われわれも、日蓮大聖人様の眷族として、久遠無始いらい、この娑婆世界や、あらゆる十方の国土において、活動をつづけてきたということになります。われわれの永遠の生命も、同時に説きあらわされたことになるのであります。
(別釈)
釈迦は寿景品へまいりますと、「いや、わたしはインドで仏になったのではない。我実成仏已来、百千万億那由佗劫……五百塵点劫をへている」と説きます。
このときから娑婆世界にいて衆生を説法教化してきたといって、娑婆世界という国土を、ここに打ち出した、これを本国土妙といいます。それから、もう少し後に、我本行菩薩道というところがありますが、そこが本因妙となります。それで三妙合論をはっきり説いているというので、この寿量品が大事なのです。本因を説き、本果を説き、しかも本国土を説いてこそ、生命の真実の姿がはっきりするわけなのです。インドで本地をあかした釈迦を、久遠実成の釈迦といい、大聖人様のことを久遠元初の釈尊と申しあげます。この久遠実成の釈迦の三妙合論にあたるわけであります。
文底仏法の三妙合論を立てれば、本因妙は日興上人様、本果妙は日蓮大聖人様、本国土妙は日本国、その中でも富士大石寺となります。