(4) 教相と観心

 

 この寿量品を朝晩読みます意味でありますが、この法華経の読み方に二色あるということは、前にもよくいっておりますが、釈迦の仏法の立場から読みますのを、教相というのです。

大聖人様のお悟りの境涯で読むのを、観心というのです。

教相と観心と立て分けて読みませんと、大聖人様の仏法における寿量品の位置がわからなくなってくるのです。

 

 釈迦仏法の立場からみますと、東洋において、法華経の解釈では、天台の右に出る者はありません。天台は、実によく法華経の説明をしているのです。ところが、世界中の人が全部それに迷っております。天台の説明のし方は教相なのです。像法の時には、あれ以外にやりようがないのであります。末法になって、大聖人様がお読みなっているのは、観心の、さとりの読み方です。それが御義口伝と、本因妙抄と、百六箇抄、この三部の御書を、はっきりと胸にたたんで法華経を見れば、始めて天台の読み方と、天地雲泥の相違があることが、はっきりするのであります。

 

「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という御書は、日蓮大聖人様の御書の中で、もっとも重要なものであります。この御書の読み方は「如来滅後(にょらいめつご)五五百歳(ご ごひゃくさい)に始む観心本尊抄」であります。この読み方が大事なのであります。日寛上人様は、この読み方に、はっきりと定められておられ、「の」字を、わが形見とも思えとおおせられております。

 

 なぜ観心の本尊抄と読むかといいますと、今われわれが拝んでいる御本尊様は観心の本尊なのであります。そうしますと、他の本尊はどうかということになります。身延あたりで拝んでいる釈迦の像とか、なんとかは、教相の本尊というのです。教相・観心ということを、別に立て分けてみますれば、文上・文底ということになるのであります。

 今から読むところは、五百塵点劫というところでありますが、これは久遠実成の釈迦如来と仏法上ではいっておりますが、五百塵点劫に成仏した、久遠実成の釈迦如来は、文上の釈迦如来になるのであります。教相の本尊になる。文底となりますれば、久遠元初の自受用報身如来久遠元初の釈迦如来となるのであります。

 

久遠元初の釈迦如来と申しますれば、観心の本尊、観心の仏になるのであります。ここの立て分けがはっきりしませんと、始め教相で読み、次に重ねて観心で読みますから、読みましても、混乱してしまうのであります。久遠実成の釈迦如来は、脱益色相荘厳の仏というので、文底の仏になりますれば、下種益の仏、下種凡夫のお姿の仏になるのです。釈迦仏法と大聖人様の仏法とに、はっきり立て分けがあります。

 

 今、この題号を妙法蓮華経如来寿量品と読むに当りましても、教相の上で読みますと、如来というのは、あらゆる仏を指すのです。寿量とは、功徳を量るということですから、あらゆる仏が妙法蓮華経から出生している、その一切の仏の功徳をはかるという意味です。

 ところが、先ほど申しあげましたように、大聖人様は御義口伝において、不思議なことに、寿量品のところだけ、"南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事"とおおせられております。ここが、大聖人様が文底だぞ、観心だぞと、お読みになったところでありますから、南無妙法蓮華経の如来、下種仏になるのであります。南無妙法蓮華経の如来の功徳を量るのであります。

 

大聖人様が、この寿量品をお読みになっておられる御境涯は、南無妙法蓮華経の如来寿量品として、お読みになっているのであります。

 ですから如来秘密、神通之力とあるのは、南無妙法蓮華経の如来の秘密、神通の力と読まなければいけないのであります。こう読みますれば、この如来の秘密、釈迦如来滅後二千二百三十余年の間、未だかつて説かざるもの、三大秘法の御本尊、その御本尊の神通力といいますと、貧乏人を金持ちにし、病める者をなおし、最後には、われわれごとき下らぬ凡夫が、仏の境涯に到達する、成仏するという神通の力があるというのであります。