妙法蓮華経方便品第二の講義 (4)本文解釈の(5)
所謂諸法。如是相。如是性。如是體。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究寛等。
【所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究寛等なり】
(文上の読み方)
この十如是の文は略開三顕一の文であり、一念三千の法門の出処であるが、また寿量品に説かれている三世間があらわれぬので、百界千如といわれている。すなわち唯仏と仏のみ、いましよく究尽したまえる諸法の案相とは、十如是のことである。
われわれの生命は、十界を互具して永遠に続くものである。しかして、煙草の火が続いても、生れ変ったなどといわぬように、われわれの生命も生の生命、死の生命の別こそあれ、生れ変るものではなく、そのまま続くのである。
このような、われわれの精神や肉体のみならず、宇宙のあらゆる森羅万蒙や依正は、すべて十如実相をそなえている。すなわち、これは十界論のごとく生命の実相を説いたものであって、手短かにいうならば、十界をまた細分して、その実相を説いたものである。
たとえば天の境涯と一口にいっても、おおまかな実相論であるから、これをまた深く観察するならば、十種の実相をみることができるというのである。このように、地獄界にしても、人間界にしても、餓鬼界にしても、みなその瞬間々々に、十種の生命の実相に区分してみることができる。この十種の生命観がすなわち十如是である。
その十如是とは何かということを、簡単な例を引いて説明すれば、次のようになる。
たとえば、ある人が十万円の札束を拾ったとする。その瞬間に次のような働きがある。
しかし、この例は生命活動の一瞬間であるということを忘れてはならない。
如是相 拾った瞬間のその人の姿、かたちである。金が欲しくてたまらない餓鬼の境涯にいる人は、嬉しさのため、何もかも忘れ相好をくずし、夢中で喜んでいる姿になる。地獄界の人、たとえば、一人子が病気で死にそうな状態に悩んでいる父親が、この十万円束を拾った瞬間は、札束を拾ったのか、くず紙の束を拾ったのか、わからぬような姿で、また捨てようとするような態度であるかもしれぬ。
また声聞界・縁覚界の人は、自分だけは幸福でも、他人のことなどは、少しも考えぬ境涯の人であるから、この十万円束を拾ったとするならば、掛り合いになってはならない、面倒なことが起ってはならないと思い(如是性)これを捨てて逃げようとする姿を表わすであろう。
このような、十万円を拾ったときの喜びの姿、驚きの姿、迷惑そうな姿、気の毒そうな姿等が如是相である。
如是性 その時の性分であり、畜生界の人は、拾った姿を人に見られたくないと思うであろうし、人間界の人は、拾った物は交番に届けるのが当然だという、一般通念にもとづいている心の状態であろう。また菩薩界の人は、落した人が可哀そうだ、早くとどけてやりたいという心で、一パイではなかろうか。ただ仏界ばかりは、申しのベがたいのである。
如是體 修羅界の人は腹を立て、その場に投げようとする姿が、体にあらわれるだろう。餓鬼界の人は、十万円の束をシッカリと、にぎりしめて、落してはならないという餓鬼の姿を示すであろう。
このように、その人の性分とその人の姿に、種々の体をなすのである。すなわち、驚いた体、喜んだ体、当惑した体、人に見られはしないかと、あたりを見廻そうとする生命体などがあるであろう。
如是力 畜生界の人は、ノラ犬が食べ物をかくれて食べるときのような力がわきでる。地獄界の人は、十万円の金をもったときも、何らの力もそれによって湧いてはこないだろう。菩薩界の人は、落した人に一刻も早く届けてやりたい心で、一パイであるから、その方法等について、勇気凛然たる力がわいているはずである。
如是作 前の力が働きとなってあらわれ、声聞縁覚の人は、自分に迷惑がかからないようにしようという一心であるから、そっとそこにおこうとする働きが満ちる。畜生界の人は、十万円の金をわがものにしようとする意図の働きがみちて、鼠が穀物をとろうとする働き、犬が食物を盗みとらんとする働きが、そこにあらわれるであろう。
このように、拾った十万円をもっている、その人の瞬間には、十万円をどうすべきかという働きを保っているのである。
如是因 その十万円を拾ったということが何かの因になる。すなわち世の中を面白く愉快に暮している天界の人は、拾ったことが愉快で、また天界の因となる。菩薩界の人は、拾った十万円で人を救い菩薩行の因を積むであろう。地獄界の人は、十万円拾っても、あいかわらず悩みに沈んでいるだけであるから、地獄の因を積んでいるにすぎない。これでは、幸福への道は開けないのである。
また拾ったという、その瞬間に十万円を拾うべき因もあるのである。
如是縁 地獄界の人は拾った十万円が、また外界の縁となり、そこにさらに悩みがおこるような縁になって苦悩を深める。人をあわれみ、世を思う徳高い菩薩界の人は、この十万円と結んだ瞬間の縁は、落した人をあわれむの心から、あわれみ深い人が、怪我せる人と会ったような縁と似ているであろう。声聞界、縁覚界の人は、俺一人よければ、それでよいという個人主義の人だから、十万円を拾った瞬間に、その縁はあたかも、貴婦人がゲジゲジ虫にあったような縁に似たものではなかろうか。
如是果 人間界の心平らかな人は、十万円をもったということにたいして、責任を感ずるような心になる果があるであろう。すなわち十万円拾った瞬間の心の状態が果である。
如是報 個人主義的な声聞縁覚界の人にとって、その十万円は不愉快をおぼえる一個の品物としての報であろう。菩薩界の人は哀れみ深い人であるから、落した人を哀れと思い、この十万円の金は、ただ、この人を悲しませるにすぎない財ではなかろうか。それに反して、餓鬼界の人は、落し主がなければ一年後には十万円、落し主が見つかれば謝礼金として一割、厳然たる金銭的価値の報をうけているのである。天界の人は、拾ったのも嬉しく、落した人もおもしろいといっている人であるから、十万円の金は、よいおもちゃであるくらいの報をうけているであろう。
如是本末究覚等 如是相を始め(本)とし、如是報を終り(末)として、本末究竟して中道法相である。畜生界の人は如是相から如是報にいたるまで、一貫して十万円に執着しきっている姿で、相性体力作因縁果報まで、究竟して等しく、この状態以外の何ものもない。修羅界の人も、如是相から如是報にいたるまで、一貫して腹を立て切っている状態で、相性体力作因縁果報みな究竟してこの姿である。声聞縁覚界の人は、如是相から如是報にいたるまで一貫して、みな関係したくないという個人主義な状態で、相性体力作因縁果報まで究竟して等しくこの姿である。菩薩界の人は、如是相から如是報にいたるまで、一貫して思いやり深い状態で、相性体力作因縁果報まで究竟して等しく同じである。
(文底の読み方)
法華経というものが、なんのために説かれたのかということを根本的につかんでいないと、法華経は読めないことになるのです。法華経には、御本尊様のお姿やお力を書いてあるのです。御本尊様を、大空中に示し、われわれの生命の中に大御本尊様をこしらえるように認めるように、教えてあるのが法華経なのです。
そこが根底になるのです。だが、誰も書きあらわさない。しかし、この法華経二十八品は、御本尊様の姿の説明、力の説明以外の何ものでもないのです。
方便品の大事なところは、諸法実相。あらゆる経典の中にも、実相という言葉がある。仏、釈尊という言葉にも六種類あると申しましたが、実相という言葉にも、ただありのままの姿だと、こう読んでゆく低い経文と、この文底深秘の釈尊が顕われおわれば、諸法実相の実相は、御本尊になるのです。その御本尊の中に、十如是の力も入っておる、姿もある。十界互具の姿もある。
みな御本尊の中に、ことごとく納めつくされているのです。しかも、その御本尊様は、常住なのです。寿量品の自我偈に、「一心欲見仏・不自惜身命・時我及衆僧・倶出霊鷲山・我時語衆生・常在此不滅」とあるあの中に、またこの十如是の中にも全部御本尊様の御姿が認められているのです。これを書きあらわすものがない。すっかり仏様の姿を説いてあるのだけれども、ただ不思議と申しまして天台・妙楽の一門は、摩詞止観と申しまして、自分の生命のあり方を思索して、そこから、観念観法といいますが、御本尊を自分の胸に作りあらわすのです。これは、なかなかできないことです。しかし、以前に釈迦に会って、あるいは法華経に前世であって、仏の姿を見てきた人たちは、ここにおいて教えられることによって、観念観法の方程式によって、胸の中にそろそろと、仏の姿、今の御本尊様が胸の中に浮かんでくるのです。しかし、これは仏像の仏ではないのです。
大聖人様の御書を拝しますれば、南岳にしても、天台、妙楽にしても、南無妙法蓮華経というものを知っておった。なぜ、説かなかったかといえぱ、仏の付属がない、時ではない、人々に機根もない、説く生命力もない、故に説かなかったのです。
ところが、末法今時になって、御本尊様を書きあらわす日蓮大聖人様が出られた以上には、そういう偉大な資格を持って出られたのです。そして観念観法もいらない、摩訶止観も読む必要ない、ただ南無妙法蓮華経を唱えておれといわれるのです。正像時代には、過去世の縁をもって、また今世の修行によって、ここに仏像(御本尊様)を作り顕わすことができたけれども、今度はそんなことをしないでいいのです。御本尊を拝んで、南無妙法蓮華経を唱えることによって、わが生命の中に、ずーっと御本尊様がしみわたってくるのです。目を開いて大宇宙を見れば、そこに御本尊様がいまし、また、目を閉じて深く考うれば、お山の御本尊様が明らかに見え、わが心の御本尊が、そこにいよいよ力を増し、光を増してくるのであると、こう教えられているのです。
御本尊のことを一念三千と申し上げるのです。ですから毎朝、「事の一念三千・人法一箇……」と、御観念文で申しあげておりますが、この十如は、一念三千の一部の姿を説いてあるのです。前に、十界はすでに説かれているのです。また、法華経の経文の上に、十界互具は明らかに示されているのです。そこで、十界互具、一念三千というのは、この十如是という姿がなければ、ほんとうの実相は見きわめられないという。
そこで、この十如是というものは、御本尊様のお姿というものを、略して説いていることになるのであります。そこで方便品は大事なのです。表からいえば、十如是だけです。これは教相の面です。大聖人様の御内証、観心の目から見れば、立派にこれは御本尊になるのです。
如是相 われわれ衆生も同じですが、みな相を持っております。人相というものを持っています。仏様にもお姿がある。迹門の仏と、本門の仏と、文底深秘の仏とは、みな相が違います。ピカピカしたアミダみたいな仏相、あんなのは考えてみたって、ウソだということがわかるでしよう。そんなウソのものを信じて、頼りにしても、しようがないのです。ところが、末法の御本尊、文底深秘の御本尊の如是相というのは、凡夫のお姿そのままではないか、凡夫相でいらせられる。それがほんとうの仏のお姿です。
如是性 仏の性分を持っていらっしゃる。大聖人様は、お姿は凡夫のお姿であるが、お心は御本仏の性分である。
如是體 そして、大聖人様という御本体を作られている。これは、御本尊についても同じくいえます。
如是力 力を持っておられる。同じ仏でも迹門の仏と、本門の仏と、文底深秘の仏とは力が違います。文底深秘、南無妙法蓮華経という力は、大聖人様というお力は、あらゆる仏を作られているのです。
如是作 力のあるところ、必らず作用があります。働きというものです。
如是因 作用があるのには、原因があります。大聖人様が末法にお生れになって、文底深秘の大法を説かれる因は、久遠元初に、すでにできているのです。
如是縁 その縁は、末法の衆生というものを縁になすっていらっしゃる。われわれが緑になっているのです。われわれは、釈迦になんにも縁がないのです。だから、釈迦の仏法なんかでは、絶対に成仏できない、幸福になれない。そういう仕末の悪い者が生まれてきた時だから、それを縁として御出現になったのです。
如是果 よって、竜口の御難を受けられ仏の境涯を顕わされた。
如是報 報いを受けられた。御本仏としての非常に平らかな境涯を九ヶ年、身延の山でおすごしあそばして、仏の境涯を楽しまれたのが報です。
本末究竟等 これを仏の姿に読みますれば、如是相という大聖人様のお姿、如是性という本仏のお心にしても、如是体という本体にしても、また、力にしても作用にしても、因縁果報ことごとく御本仏の姿、それ自体でしよう。本も末も、究寛して等しいでしよう。それをいうのです。ここにカリにドロボウがおるとする。そのドロボウは、如是相から、如是報までことごとくドロボウであるのです。それが本末究竟等、一貫しているわけです。
御本尊と申し上げますれば、如是相も、如是性も、如是体も力・作・因・縁・果・報ことごとく御本尊様なのです。一貫していなければダメなのです。
如是相が仏様で、如是性がドロボウで、如是体が猫だなんて、そんなふうに変っていてはいけません。それを本末究竟等というのです。仏様は変らない。全部完全体で、同じである。ところが、われわれは、そうはゆかない。諸法実相というものは、御本尊は完壁であるけれども、今度われわれの身に当てはめてみると、本末究竟してないのです。
そこで御本尊を拝んで、仏様のお力によって、本末究竟等の生活をするようになければならないのです。
御本尊のお姿をここで説かれて、御本尊のあらましを示して下さっているのです。御本尊様を知らないで、読んでしまったならば、ここに御本尊の姿がほぼ顕われているということに気がつかないのです。ここに教相読みと観心読みとの相違がある。
(別釈)
次にこの十如是を三遍よむのは、わが身がすなわち空仮中の三諦・法報応の三身・法身・般若・解脱の三徳とあらわれることを意味する。
なお、くわしくは、大白蓮華二十九号、三十号の十如是論を読まれるとよくわかる。
日蓮大聖人の法門では、拝む対象はただ弘安二年十月十二日御認めの戒壇の大御本尊様あるのみである。
そして修行には二つがある。正行として三大秘法の南無妙法蓮華経の題目を唱えるのである。助行として正には寿量品を読誦し傍には方便品を読誦するのである。助行とは、たとえば塩や醤油、味噌などが御飯の味を助けるような働きをするのであるから欠かすわけにはゆかないのである。
この方便品を読誦するときは、釈迦の法華経ではなくして、大聖人の御読み遊ばされた法華経方便品として、一には所破のため、二には借文のため読誦するのであり、当流行事抄や末法相応抄にくわしい。この方便品の講義は、教相と観心と、両方をしてありますけれども、大聖人様がお読みになっていられるのは、観心の読み方である。そのことを、しっかりと胸において読むべきであります。