妙法蓮華経方便品第二の講義 (4)本文解釈の(4)
舎利弗。取要言之。無量無邊。未會有法。佛悉成就。
【舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり】
(文上の読み方)
そうして、舎利弗よ、要を取ってこれをいえば、肝腎要をいうならば、無量であって無辺であるところの未曽有の法をば、仏はここに完成した。そういう境涯を得たという。
(文底の読み方)
そして、要をとっていえば、末法の御本仏日蓮大聖人様は、迹門の仏も本門文上の仏も弘めない、いまだかつてなかった法、すなわち文底深秘の大御本尊様を御建立あそばされたのである。
止舎利弗。不須復説 所以者何。佛所成就 第一希有。難解之法。唯佛與佛。乃能究盡。諸法實相
【止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり】
(文上の読み方)
始めに申しあげたように、この方便品だけは、仏が誰びとの問も受けないで、はじめから「諸仏の智慧は甚深無量」といって、仏の境涯を讃嘆しだしたのです。きかないのに説きだしたのです。これを無問自説といいます。それで、無問自説であり、これまで、さんざん仏の境涯をほめたたえてきながら、ここへきて、「止めよう、お前にはもう説いて聞かせぬ」といったのです。これでは聞いてる方は、あわててしまう。
舎利弗などは、空理を悟った境涯で、自分はこれで安心したと思いこんでいる。これ以上、仏の境涯などはもらおうと思わない。また慈悲なんかないのですから、誰びとをも助けてやろうとは思わない。これを今まで叱って叱って叱りぬいてきて、ここで「舎利弗、お前も仏にならなければならないのだ。迦旃延、大目犍連、大迦葉、そのほか阿難にもせよ、あらゆる人々はみな仏にならなければならんのだ」と説くのが、この法華経なのです。
これまでは、「お前は菩薩でいい」「縁覚の位でいい」「声聞でいいのだ」等々、この縁覚・声聞は二乗といいますが、菩薩を入れて三乗といいますが、「お前らは三乗の境涯でいいのだと思っているだろうが、違うのだ。仏という境涯になるのが、ほんとうにお前方が幸福になる根源なのだ、人生の根源なのだ」と、説くのです。
それで、仏の成就したもうところは、第一希有である。仏の境涯というものは珍らしいのだ。難解の法なのだ。相手にはわからない、わかりがたい法だ。そして、仏と仏とだけが、いまし究尽するところの諸法の実相は、仏でなければ判らないところのものであって、他の凡夫や、二乗の階級にはわからぬ法である。
舎利弗、お前のような境涯には判らぬから、説いてやらぬ。
第一、仏の成就したところのものは、希有なのだ、ありふれたものではない。難解の法なのだ。ただ仏と仏とのみが判ることなのだと。
(文底の読み方)
しかし、日蓮大聖人様は、仏と仏とのみ諸法の実相を、いまし究尽したもうというが、迹仏の境涯の仏では、究尽したところのものは、いと浅はかなものである。末法深秘の大御本尊様に比べれば、ものの数ではないとおっしやっている。
迹門では、まだまだ仏法の奥底は顕われておりません。奥底が顕われていませんから、そういわれるのも無理はないのです。
しかし、この文を借りて、文底の御本仏の境涯を説明申しあげるならば、大御本尊様の御境涯は第一希有で難解の法であり、大聖人様だけがよく御知りになっていられて、われわれにはわからないものであるとのおおせです。また仏と仏とのみ知っておられるとは、日蓮大聖人様と、第二祖日興上人様のみが、よくお知りになっておられるのです。しかして日蓮大聖人様は「止みなん、舎利弗、復説くべからず」との御境涯でなくて、われわれ末法の衆生に余すところなく三大秘法として御説きなされておられるのであります。
(別釈)
釈迦は舎利弗にむかって、「お前らは、みんな二乗じゃないか。もろもろの執著を離れて、もう世の中はこれでいいのかと思いこんでいる。お前らをその境涯まで引っぱってゆくために、わしは出てきたのじゃない。あらゆる仏が世の中に出現するのには、お前らの持っているところの仏知見というものを開いてやる、示してやる。それから悟らしてやる。そして仏の境涯というものに入らしめてやる。(開示悟入)そのために生まれてきたのだから、まず最初に仏の智慧を讃歎するのだ。それからお前を導いてくるのだ。お前みたいな者が、何億人集っても仏の智慧はわからない。また文殊や観音のような者が集っても、決して仏の智慧はわからない」といった。
そこで舎利弗は、「それで、よくわかりました。そんな偉大な法力があるならば、私は信じます」と。これを以信得入、信をもって入ることを得たりという。わかってから入るというものではないのです。
結局、舎利弗のごとき智慧第一の者ですら、仏の智慧を讃歎して、信をもって入ることを得た。ですから信心をもって入らなければならない。
折伏すると、よく、「判ってからやる」という人がある、絶対、わかりっこないのです。方便品の教相は、舎利弗のような、印度第一の智慧者でもわからない。かろうじて、信心をもって入ることができたのだと、信心の大切なことが説かれている。
法華経方便品で三乗を破して一仏乗をあらわすということは、ちようど学会が今、折伏でいってることとごく似ております。金持になるのが人生の幸福だ、丈夫になれば幸福だ、いや、おれは大臣になるのが人生の目的だ、いや、博士になるのが幸福だというふうに、ただ、小目的に立った人のみです。これは三乗を求めている衆生です。
それを今、われわれがいうのは「御本尊様を信じて、受持せよ、これが人生の目的なのだ」と、こういっているのです。これは誰だってわかりません。「ほんとかな、御本尊様を拝む、御本尊様を信ずる、それが人生の目的か」と。御本尊様を信じ、行じてゆくところに人生があるのです。それが、われわれがほんとうに幸福になる大元なのです。