(4)本文解釈

 

次に方便品第二の本文に入ってまいります。

 

妙法蓮華経。方便品。第二。

爾時世尊。從三昧 安詳而起。告舎利蹄。諸佛智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切聲聞辟支佛。所不能知

 

【爾の時に世尊、三昧より安祥として起って、舎利弗に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり、其の智慧の門は難解難入なり、一切の声聞辟支仏の知ること能わざる所なり】

 経文の読み方には文上と文底がある。この法華経をもっとも深く奥底からよく読まれた方は日蓮大聖人であられ、御義口伝等のごとく文底からの読み方をなされている。これ、大聖人の観心の仏法であります。法華経を文上から読んで、経文の文句などを最も上手に解釈したのは天台大師である。これ教相の釈迦仏法であります。

 末法においては大聖人の読み方のみ学ぶべきであるが、一応、釈迦・天台・妙楽等の文上の解釈をやらぬと前後のつながりが解らなくなる憂いがありますから、始めに天台・妙楽等の読み方を簡単にのべ、次に日蓮大聖人の御真意である御義口伝の読み方すなわち文底の読み方によって行きたいと思います。

 

(文上の読み方)

 前にのべました序品第一で、釈迦は無量義処三昧という禅定に入っていて一言も発しなかったのですが、いよいよ機が熟して法華経の説法が始まるのであります。

 

 その時に、仏が無量義処三昧(三昧とは心を一つのところに定めて仏法の哲理を思索すること)より安らかに立たれて、誰も聞かないのに、自分から進んで、舎利弗に次のように告げられた。

「あらゆる仏の智慧は甚だ深く、はかることができないほど大きいものである。すなわち時間、空間において透徹した智慧をもっている。また、その仏の智慧の門は解しがたく入りにくい。その仏の智慧は一切の声聞や辟支仏(緑覚)、すなわちお前たちのとうてい知ることができないところである……」

 

(文底の読み方)

 しからば、文底に立ち帰って、諸仏の智慧は何かと読んでまいりますと、今度は大聖人様の哲学上から読むことになってきます。

 

 その時というのは末法であります。世尊とは即ち御本仏、日蓮大聖人であられます。三昧とは法性の淵底におられたのです。舎利弗とは、われわれ末法の衆生、大聖人様の眷属をいいます。

 すなわち今まで法性の淵底に静かに休んでおられましたところの日蓮大聖人様が、末法の時、この娑婆世界、日本の国に御出現になられて、われわれに次のように告げられたのです。

 

 諸仏の智慧とは南無妙法蓮華経、すなわち人法一箇、境智冥合の智慧をいいます。甚深無量とは、縦に遠く横に広いことをいいます。時間的には永遠であり、空間的には大宇宙それ自体の広さなのです。南無妙法蓮華経の境涯は甚深無量である。

 その智慧の門とは南無妙法蓮華経へ入る信心の門であります。南無妙法蓮華経とは、もちろん三大秘法の大御本尊様を指します。その信の門は難解難入すなわち、なかなか御本尊を信ずることができないのであります。

 その証拠にわれわれがいくら折伏しても、なかなか相手が聞かないのです。一切の声聞や辟支仏(縁覚)すなわち、世に学者やインテリなどといわれる利己主義者たちは、自分だけの狭い悟りに執著し、御本尊を知ることができないのであります。

 

(別釈)

 これが文上と文底の読み方ですが、一つ一つについで、さらに説明してまいります。

 

『爾の時』という時とは、ふつう、われわれの用いる二時、三時、何時、春の時、時間などというのとちがって、仏法上で用いる時であります。すなわち「爾の時」とは、オトギ話でいう「ある時に兎と亀がおりました」などというのとちがい、衆生がおって仏を感じ仏に説法してもらいたいと感ずる時に、仏はそれに応じて現われて説法した時と読むのであります。これを文上から読めば、釈迦の場合には、声聞、縁覚の二乗を仏にする時であります。また仏法用語の時は、三時すなわち正法の時、像法の時、末法の時というように用いております。

 また、これを文底から読めば、「爾の時」とは末法において、御本仏・日蓮大聖人がわれわれ末法の衆生の機が、仏を感ずるのに応じて、われわれの苦悩を救われるために御出現になり、三大秘法の南無妙法蓮華経を説法なさる時であります。

 

『世尊』とは仏のことですが、仏には蔵教の仏、通教の仏、別教の仏、法華迹門の仏、法華本門文上の仏、法華本門文底の仏という六種類があることは前にものべました。しからば、このときの「世尊」とはいかなる仏かといえば、文上から読めば三千年前に十九歳のときから十二年間の修行によって三十歳で仏になった法華経迹門の釈迦となります。

この迹門の釈迦は三千塵点劫の昔には、大通智勝仏の第十六王子として出現しているのであります。

次に文底から読むならば、この「世尊」は法華本門文底の仏すなわち久遠元初という無始の大昔から本仏であられ、七百年前に日本国に出現なされた日蓮大聖人様であります。

 前に方便品を読むのに所破と借文の二義があると申しました。この場合に大聖人が「爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず……民とも下し鬼畜なんどと下しても共の過有らんや……」と仰せらるるごとく、迹門の・釈迦ではダメだと破折して読むのが所破であり、この「世尊」とは観心の仏法からみれば日蓮大聖人であると読むのが借文になるのであります。以下同じように読めるのであります。

 

『三昧』とは梵語であり、訳せば定、正受、正心行処、等持、等念などといい、心を一つのことに定めて動かさず仏法の哲理を思索することであります。

文上では迹門の釈迦が序品第一で無量義処三昧に入っておったのです。無量義処三味というのは無量義経に説かれている「無量の義は一法より生ず」という仏法の哲理を深く思索している状態です。一法とは三大秘法の南無妙法蓮華経のことであります。すなわち「一切法これ仏法なり」われわれの人生や宇宙のあらゆる現象は、南無妙法蓮華経の一法より生ずる、われわれの根本を御本尊様におくということであります。

 文底からみれば、日蓮大聖人が法性の淵底すなわち無始無終の大宇宙において、南無妙法蓮華経を唱えられ思索される三昧に入っておられたのであります。

 

『舎利弗』とはお釈迦様の声聞の弟子で、釈迦の十大弟子の第一の人であります。当時の印度で智慧第一といわれていた人であります。立派な人でありましたが、また一面怒りっぽい人であったともいわれております。法華経迹門方便品の対告衆となり成仏して華光如来という名をあたえられました。

文底からよめば舎利弗とは、われわれ末法の衆生をいいます。われわれに、大聖人様が説法なされたのであります。われわれは御本尊を信ずる故に、「以信代慧」すなわち、信をもって智慧にかえることができて、智慧第一となるのであります。

 

『無問自説』次に釈迦が、みんなが誰も質問しないのに、みずから「諸仏智慧。甚深無量……」と説き出す説法の方式を「無問自説」といい、その外にこのような説法のやり方に十二の方式がありますので、釈迦の経典を十二部経と呼んでおります。

 

『発起衆』仏が説法するときには必らず四種類の衆生が集っております。釈迦の経典を読みますと、いつでも「四衆に囲繞(いにょう)せられ」とあります・その四衆とは発起衆、影響衆、当機衆、結縁衆という四種類の衆生をいいます。発起衆というのは、仏にたいして説法を請い、あるいは疑問をだしたり、問答などをおこして、仏の説法を発起させて化導をたすける人をいいます。すなわち質問会などで質問を起す人です。

次に当機衆といいまして、その場で仏の説法を聞き教えをうけて「ハハーン」とわかる人です。結縁衆というのは、そこで縁を結んで、それから未来に悟っていく人です。

それから影饗衆といいまして、仏のそばに従っていて、その仏の立派なことを証明する役目の衆生がいますが、そういう人をいいます。

たとえば、舎利弗尊者や弥勒普薩が、仏に質問をしますから、これは発起衆です。文殊や観音や妙音という菩薩たちは、他の仏土から釈迦の仏法をたすけにきているのですから、影響衆であるというわけです。

 この中で発起衆というのが大事なのです。よく質問会なんかで、何か質問を出して聞きますが、その人が発起衆にあたるわけです。その聞き方が上手か下手か、まじめか不まじめかで質問会の内容がきまってきますから、発起衆というのは大切なものになってまいります。

 釈迦の経文は説法のし方、すなわち経文の形式によって、十二に分けられる。それで十二部経といわれるのです。普通は発起衆が仏に問いを発して、ついで四衆に説法するというやり方ですが、この場合は無問自説という十二の中の一つの形式で、発起衆が質問しないのに、仏がみずから仏の智慧を讃嘆して教えを説くというやり方をしています。

 

『諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入』文上では、諸仏の智慧は甚だ深く無量に広いものであるというのは、仏の実智(仏界の智慧)を歎じていると説きます。また、その智慧の門は解しがたく入りがたいぞというのは、仏の権智(九界の智慧)を歎じていると説きます。また、あらゆる仏の智慧は甚深であるとは、縦に深い時間を説き、無量は横に広い空間を説いていますから、時間、空間において透徹している智慧ということであります。

 また、天台では「其智慧門」の「其の」とは仏の因で、「智慧」とは仏果であると説きます。その仏になる智慧の門を道前、中を道中の境涯と説いております。また「難解難入」の解は初住の位、入は十地の位と説いております。

 文底から読めば、諸仏智慧とは南無妙法蓮華経、すなわち御本仏日蓮大聖人の智慧であります。迹門の仏の智慧が甚深無量ではなくて、南無妙法蓮華経の智慧こそ、はじめて甚深無量ということができるのであります。また其の智慧の門というのは信心の門であります。折伏しても、なかなか聞かないのですから、難解難入なのであります。信心できれば、信をもって慧にかえるゆえに智慧の門であります。

 

『一切声聞。辟支仏。所不能知』一切の声聞や辟支仏の知ることができないところであるというのです。辟支仏とは縁覚のことです。長い間修行をつみ、智慧第一といわれた舎利弗等に、お前たちの知ることができないところであるとはねつけたのであります。

 声聞乗と縁覚乗とを二乗といい、そのいやしい心を二乗根性といっております。声聞とは仏の教えを聞いて世の中の無常を感じて悟ったと思っているもの、縁覚とは世間のことを縁として無常を感じて、ひとり悟ったと思っているものです。この二乗は自分たちだけ悟ればよいと思い、また自分たちだけこの苦しい世の中をのがれて、苦しみのない世界にいきたいと空想している、いやしい根性の連中であるだけに、権大乗経で徹底的に嫌われてきた人たちです。

 

 文底からよめば、信心のない者は絶対に南無妙法蓮華経の境涯、そのすごい功徳、すばらしい生命哲学はわからないというのであります。信心してはじめてわかるのであります。特に二乗というのは、今でいえば浅い哲学や科学をもって悟ったと思い、自分のことしか考えられないような心をもつ学者階級、インテリ階級をいうのである。こういう人たちは、もっともわからない連中であります。

 今の学者で、科学々々といって、科学万能のように思っている者にはわからないのです。日本の国は、徳川幕府崩壊以来、約百年、その間、日本が非常に科学に遅れていたために、もう一生懸命に科学々々と進んできたのです。世界中も、もちろんそうですが、科学万能ということになって、この大事な東洋の哲学、われわれの生命の哲学を忘れてしまった。

 

 電気を例にとっても、すごく利用されている。実にいたれりつくせりであります。これ以上、何も発明してもらいたくないくらいです。電気洗濯機も便利でしょう。テレビも便利でしょう、だけれども、理窟では文明は幸福をもたらすというが、買えなければかえって不幸を感じます。友だちが買って、自分が買えなかったなんていうと、肚が立ってきます。原水爆なんていう、めいわくなものまで発明しておるのでは、かえって不幸をましているのではないでしようか。われわれは絶対に科学を否定するわけではありません、いいものだけれども、科学が発達すると、ただちに人類の幸福を増す、という考え方を否定するのであります。

今から二百年前に、百姓していた人の幸福と、われわれの今の幸福と、どっちが幸福か、考えてみればよいでしょう

 われわれの幸福というものは、ほんとうの生命の哲学がはっきりしてこそ、はしめて得られるのです。御本尊を拝んでこそ、ほんとうに幸福になるのです。それを、科学だ科学だ学問だなんていっているものは、「一切声聞、辟支仏。所不能知」にあたるわけです。

こういう人たちは「信心なんかオカシクテできない」なんていうでしょう。「南無妙法蓮華経なんて、はずかしくていわれない」なんていうでしょう。今信心しているわれわれでも、前はそうだった人が、大部分でしょう。ある有名な小説家の方ですが、子供さんがいよいよ死ぬか生きるかというときに、信心しましたので、護秘符をいただかせて「ちゃんと拝みなさい」といったら、はずかしいものだから、書斎に鍵をかけて、その中でお経を上げたというのです。なかなかこの声聞・縁覚の人というものは、南無妙法蓮華経の境涯を知ることあたわざるものなのです。つまらない理窟をいう者ほどわからないのです。