(2) 序品第一
無量義経の説法が終りますと、釈迦はまず序品第一で無量義処三昧という三昧に入ります。
三昧というのは、心を一処に定めて動かず一心に思索する状態であり、無量義というのは、無量義経の『無量義は一法より生ずる』ということを一心に思索していられる。そうすると、このとき、天から曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼珠沙華・摩訶曼珠沙華という華がふってきて、地は六種に震動した。
この瑞相に喜んで会座の人人が一心に釈迦をみているうちに、釈迦の眉間からは白豪相の光を放って東方万八千の世界を照らした。実に壮厳をきわめ、釈迦は何もいわない。
その万八千の世界を、集まった人々が見ると、その国や仏や菩薩や声聞や縁覚や人間界や餓鬼道や修羅等の世界が、みなよく見える。これは一体何ごとであろうか、またこの理由を誰に聞いたら良いだろうかと、弥勒菩薩や一切の大衆が心に疑いを起したのです。
ところで、文殊師利菩薩は、過去に既にたくさんの仏に親近して供養しているということを思いだして、弥勒菩薩が代表して文殊に尋ねたのです。文殊師利菩薩がいうには
『私は過去において沢山の仏にあい、このような瑞相にあったが、その後には仏は大法を説かれた。故に今度も衆生に難信の大法を聞かしめようと欲して、このような大端を現じたのであろう。過去世において、あるとき日月燈明仏という仏がおって、この仏には八人の王子がおられたのです。父が出家して成仏したことを聞いて、みな王位をすて出家した。このときに日月燈明仏は大乗教の無量義・教菩薩法・仏所護念と名づける教えを説いた。その経を説き終ってから無量義処三昧に入り、そのとき今と同じような大瑞があらわれ、その後で日月燈明仏は無量義処三昧より立って、妙光菩薩に妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名づける経を説いて、徳蔵菩薩に授記し終ってから涅槃に入られた。
仏の滅後に妙光菩薩はこの法華経をたもって人々のために説いたのです。その弟子に、求名というものがあった。ところで弥勒菩薩よ、そのときの妙光菩薩というのは他でもない、わが身(文殊師利菩薩)である。また求名菩薩は誰かといえば弥勒お前自身だよ』
このように文殊菩薩はいって、この瑞相はそのときと異りがないから、今の釈迦仏も必ず大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名づける経を説かれるにちがいないといった。
ここで少しつけ加えますが、今"妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念"という言葉ですが、この仏所護念云云というのは、どういうことかといえば、『この大乗経の妙法蓮華というのは、菩薩を教える法で、また仏の護念したもうところの経である。この妙法蓮華経は三世十方の仏が護り念じてきたものである」ということです。
菩薩というのは菩提薩埵と申しまして、自分では仏になろうと志して修行し、他の者にも利益を与えようとする者をいいます。
しかるに霊友会や立正交成会や仏所護念会、妙智会等で、仏所護念をどのように使っているかといえば、彼らは死んだ仏様がわれわれを護ってくれる、それが仏所護念だといっております。冗談じやないのです。仏というのは死んだ人をいうのではなくて、三世十方の仏の意味なのです。その真実の仏が護り念じてきたのが妙法蓮華経であるというのですから、ずいぶん、ひどい嘘を教えるものでしょう。死んだ人が仏だというのなら、仏になるには、死ねばよいのですから、仏道修行はいらないことになるではないか。
人間の生命には十の種類がある。カントの言葉を借りれば範疇ともいえる。この生命の範疇は、くわしく分ければ三千ある。これを一念三千という。大別すれば十法界といって、仏、菩薩、縁覚、声聞、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の十種がある。
煩悶懊悩の境涯が地獄です。借金取りがきて、あおくなるのや、病で悩むのは地獄です。
餓鬼というのは、金が欲しい、物を食いたいといって悩む境涯。
畜生というのは、目先きのことしか判らないで、強い者にはペコペコして弱い者にはイバルようなものです。
修羅というのは怒っているときです。それから心のねじくれている者。物事を正しくみないで、ひねくれ根性のもの。
人界というのはわれわれの普通の平らかな境涯です。
天界というのは、喜びの生活です。
声聞、縁覚というのは、二乗といって、自分だけ安心していれば、幸せであれば、それでよいという者。
菩薩というのは、人を救ってやろう、智慧を働かして助けてやろうという、人のことを考えてくれる人が菩薩の境涯の人である。
次に、絶対の安心の境涯に立ちきった生活、その人の生命はいつも喜びにふるえ、誰人がこわそうとしても、こわすことのできない境涯、その境涯にすわって永遠の幸福をつかみきった人、それを仏という。
このような境涯が、死後の生命にもある。三世の生命観は仏法の根幹であり、永遠の真理といえる。
生きている現在のわれわれの生活は、毎日が六道輪廻の生活ですから、死んでから誰でも絶対安心の世界になんかいけるわけのものではない。これをアミダ経なんかは、釈迦の権の方便の教えですから、インチキを教えて、死んだら三途の川へ行って、そこで六文銭を払って、六道のどっちへ行くか定まるなんていうことに六道を用いていますが、そんなものではない。
われわれの毎日の生活に、六道があるのです。たとえば、朝起きて、すがすがしい気持で晴々としているときは天界です。ところが次の瞬間には、『ああ、腹がへった』と、これは餓鬼道です。台所へいったら奥さんが、まだ御飯を作っていない、そこで怒れば、もう修羅界です。今度は、こっちがやられそうになる。こわくなる、これは畜生界です。それで、また夫婦仲直りすれば、人界です。この六つの道を、いつも廻っているのが六道輪廻です。これが死後にもあるわけですが、仏法の空観がはっきりしないと説明が面倒になるのです。
この十界が誤まって用いられるようになったのは、念仏等の邪教の罪です。というのは、念仏なんかやってれば、かならず不幸になって、地獄の境涯で死んでいく、もちろん死相が悪いわけである。だからといって、『あんたのおじいさんは地獄へ行った』そういわれたら気持が悪いでしょう。
それを、おじいさんは仏界へ行って、仏さまになっているから安心しなさいと、おセジをいわれたら、やはり人間ですから、いわれた当事者の方は気特がよい。だから仏の世界へ行った、仏になったという言葉が普通の通用語にたってしまって、死んだら仏になるというような考え方をする、仏法に無知な日本人ばかりになってしまったのです。これね、仏法用語ではありません。
ところが邪宗の霊友会・立正交成会などが、人人の無智につけこんで、仏所護念とは、死んだ人が仏だから、それを拝めば仏所護念で、その仏が護ってくれる、などというようになっている。
これは実に飛んでもない誤りで、大いに恐るべきことである。なぜなら、彼らは人の戒名を書いてペタペタ貼りつけて南無妙法蓮華経と唱えさせる。すると、どうなるか。境智冥合の力を出して、その戒名にあらわれる生命に感応するのです。死んだ人が地獄に行っているなら、こっちの生命が感応して自分が苦しみ悩むようになる。十五枚貼ったうち、十人地獄が手伝いにくる。これでは生活がメチャメチャになるのは当然であります。
しかし、その原理がはっきりと見えるものなら誰もやらない。これは哲学上思惟して、仏法原理によって定めていかなければならぬが故に、すぐ人にはわからぬから、ノンキに恐しい邪教とも知らずにやっているわけだ。
これは、脱獄囚すなわち牢を破って逃げた男を捕え、人の血を吸う虱をみつけたらつぶすように、人を憎むわけではなくても、こういった邪宗は、断じて潰してしまわなくてはならぬのであります。
このように、妙法蓮華経という、菩薩に教え三世十方の諸仏の護念したもう大乗経を説こうとするのであると、文殊菩薩がいいきって、今度は序品を終って、いよいよ方便品に入ってくることになるわけです。