(5) 南無妙法蓮華経とは

 

 南無妙法蓮華経、これが非常に面倒であります。南無という意味は帰命ということであります。続けて全部読めば、南無妙法蓮華経とは仏の名前であります。南無妙法蓮華経とはどなたであるか。それは久遠元初自受用報身如来すなわち日蓮大聖人様のことであります。それを特に南無とは何だ、妙法とは、蓮華とは、経とは何だということになりますと、これには一々に問題があるのであります。

 

 東洋哲学のあり方は演繹的であり、西洋思想は帰納的ですから、帰納的な学問をやっている今の日本人も、法華経の原理はわかりにくいでしょう。帰納的というのはだんだんと論議を組み立てて結論を下すやり方ですが、東洋の哲学はポンと最高原理を決定してから説いてくる。たとえば釈迦は妙法蓮華経というものを定め、妙法蓮華経とは何ぞやと、説きおこしてくる説き方をやっております。

像法の法華経たる天台は摩訶円頓止観と決めて、その円頓止観とは何物ぞやと説いてくる。

末法の法華経たる南無妙法蓮華経は、まず南無妙法蓮華経という御本尊を決定する、そしてこの御本尊を受持することによって、己心の十法界をみることができ、仏になることができ、絶対的幸福になることができると、こう説明していくのであります。

 また科学と宗教の相違を考えますのに、科学にもせよ、芸術にもせよ、すべて研究対象があります。数量を取りあつかう数学、政治のことを研究する政治学等々であるが、しからば、宗教はというに、これは生命を研究するものです。仏法でも、同じく生命すなわち仏という生命、九界即ち凡夫の生命を余すところなく研究し解明し、幸福生活の原理を確立されたのであります。ところが、今の宗教学者といわれる人たちは、宗教というのは、単に修養のためにやるものだと思いこんでいる人が多いのです。

しかし、これはとんでもない誤りで、宗教は生命を対象とする学問ですから、われわれの生命生活をいかにすれば幸福にできるか、得があるかということを研究し実践するのが宗教です。

われわれが朝に晩に題目を唱え折伏をせよというのも、生命に得があるからやりなさいというのです。

 話が横道にそれましたが、しからば、南無妙法蓮華経とは何かにっいて、簡単にのべてみましょう。

 

 南無とは梵語です。妙法蓮華経とは漢語です。妙法蓮華経を梵語でいうと、薩達磨芬陀梨伽・蘇多覧というのです。梵語の薩とは妙と訳し、達磨は法と訳し、芬陀梨伽は蓮華と訳し、蘇多覧は経と訳すのであります。

 南無とは、日本の言葉でいえば帰命という意味です。南無するとは、心も身もともに信じて捧げつくすというのが南無です。その帰命する対象を本尊といい、これに人と法とがあります。人とは御本仏日蓮大聖人に帰命することで、法とは南無妙法蓮華経に帰命するのであります。また帰とは色法すなわちわれわれの肉体のことで命とは心法即ちわれわれの心のことであります。大聖人様は『色心不二なるを一極と云うなり』とおっしやっております。われわれの肉体と心とは別々のものでは絶対にない。ところが、それは一致しているところにほんとうの生命の極致がある。身体は会社で歩いているし、心は家にあるとなると、えらく面倒になります。人間というものは、自分の身体のあるところと、心とが一致しなくてはならない。それでも、なかなか一致ができない。その一致するところが、ほんとうのわれわれの生命の状態なのです。とにかく色心不二なる状態を南無というのであります。

 

 妙法ということは考えられぬような不思議なことです。妙は法性といいまして、悟りの境涯であり、法とは無明です。法性と無明体一であるのを妙法というのです。すなわち悟った境涯も悟りのない境涯も実体は同じだというのです。そして、あらゆる現象は、みんな法界にあらざるなく、それが妙法なのです。ですから、われわれの生命くらいの妙法はないわけです。

つくづくと生命の問題の不思議さ、妙法なるを感ずるのです。

 蓮華とは因果の二法です。因果は倶時である。これが蓮華の法です。植物の蓮華は華(因)と果(果)が倶時ですから、蓮華の法のたとえにしばしば用いられます。

 因果倶時とは瞬間の生命に因と果をそなえていることです。即ち指先に火がふれて「あつい!」と感ずる、火がふれるのは因で熱いと感ずるは果であるが、それは一瞬の因果です。

また怒ると人相が変る、怒るは因で人相の変るは果であるが、これも一瞬の因果であります。われわれの生命はあらゆる幸・不幸等の因果を瞬間にそなえている。また、われわれ九界の生命生活をしているものが、仏界である御本尊様を拝んで幸福になるのも、九界即仏界、すなわち九界を因とし仏界を果とする因果倶時の法によるのであります。この「因果倶時不思議の法」を妙法蓮華と名けるのであります。

 

 釈迦仏法では、次のようなことを説いております。

昔、印度に阿育大王という立派な国王がありましたが、どんなわけで大王となったのかといえば、前世に徳勝という五才の少年のときに釈迦仏に砂の餅を供養したために、その功徳で大王になったと説かれております。徳勝のときの供養が因で、大王になったのが果です。このように、通途の仏法では、その人の現在の境涯をみたならば過去の因がわかる、またその人の現在の行いをみれば、未来の果がわかるという、因果についての仏法定理を説いております。

 さらに日蓮大聖人の仏法では、妙法蓮華の法、因果倶時の法を説いているのです。釈迦仏法では、今貧乏していて、入る金よりも出る金の方が多いなんていうのは、過去世において泥棒した罪によるものだから、来世において金持になりたければ、この世で人に施しをしなさいという立場です。しかるに大聖人の仏法では、それでは貧乏の宿業をもった者は一生貧乏でいなければならないというのは、かわいそうであるからと御本尊をあらわされた。すなわち南無妙法蓮華経と御本尊様を拝み、また折伏をしたとき、それは因になる。過去に何も金持になる原因のことをしていなかった、貧乏になる原因のことしか、していなかったにもかかわらず、過去に金持になる因をつんだと同じ因をつむ。

果も同じですから金持の果になる。因果倶時なのです。これは観心本尊抄において、はっきり説かれております。南無妙法蓮華経と御本尊様を拝む。それによって権迹本の仏の因行果徳の二法をお授け下さるのであります。

 ですから、権教の仏、迹門の仏、本門の仏に貧乏な仏がないように、かならず金持になるのです。仏の因と仏の果とが、御本尊を拝むときに、一しょに具わるのであります。

 経というのは一切衆生の言語音声を経というので、われわれの話す声、犬の吠き声、みみずの鳴く声、それがみんな経です。「声仏事を為す之を名づけて経と為す」ともいわれております。これを開いていえば、あらゆる活動性は、ことごとく経になるわけです。ですから無明即法性、無明法性一体のもの、因果一体のものが活動する声、それはまた宇宙の生命活動、又は衆生の生命活動となり、これを妙法蓮華経というのです。

 また前にも申しあげたごとく、南無妙法蓮華経とは、法華経の行者の宝号でありまして、大聖人様御自身の御生命であります。されば南無妙法蓮華経とは何かといわれたならば、末法御本仏の御名前であると申してさしつかえありません。

つきつめていえば、大聖人様の御命と断じてさしつかえないものであります。大聖人の御生命が南無妙法蓮華経ならば、弟子たるわれわれの生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう。ですから、日女御前御返事に、『此の御本尊全く余所に求むる事なかれ、只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』(御書全集、一二四四頁) 

 このように仰せられているのが、それであります。