(2) 日蓮大聖人の仏法の読み方(文底読み)
今まで法性の淵底で静かに休んでおられた、末法の御本仏であられる日蓮大聖人様は、この末法の時、日本の国に厳然と御出現なされて、われわれ末法の衆生に、次のようにおおせられました。
南無妙法蓮華経の智慧は、境智冥合のすばらしい智慧であって、時間的には永遠にわたり、空間的には大宇宙それ自体の広さをもち、普通の人には想像もっかないものだ。日蓮正宗に入信して、この南無妙法蓮華経、三大秘法の大御本尊様を信じ奉ることは、なかなかに難しいことである。特に、世の中で学者や大家といわれるような利己主義者たちは、自分だけの狭い考えにとらわれて、御本尊様の御威光を知ることができないのだ。それで折伏しても反対するのである。
迹門の仏は百千万億の無数の諸仏に親近したというが、南無妙法蓮華経という仏(御本尊様)は、百千万億の無数の諸仏を出生した根源の御本仏であられる。故にわれら末法の衆生は、長い間の難行苦行もなく、南無妙法蓮華経を信じて唱えているだけで、百千万億の無数の諸仏について、あらゆる仏法を修行した以上の功徳がある。また、御本尊様を受持して題目を唱えたので、地湧の菩薩としての立派な名前は十方世界にとどろき、諸天善神の加護があるのも当然のことである。
末法の御本仏は、法は南無妙法蓮華経、人は日蓮大聖人という人法一箇の大御本尊であらせられるから、甚深で未曽有の仏法である。
信ずる者もまた、文底下種の大御本尊を、己身のうちに成就できるのである。御本尊様がわれわれの悩みに応じて解決して下さる、その御心は、われわれには、わかりにくいのである。
末法の衆生よ、と親しく呼びかけられ、御本尊様の功徳を話された。日蓮大聖人様は久遠元初いらい即ち無始の昔より、いろいろな因縁やいろいろのたとえ話をもって、広く南無妙法蓮華経の教えを説かれ、御本尊様を弘めてこられた。また無数の利益と罰の方便をもって、衆生をみちびいてこられたのである。また人生には執着がつきものであるが、その執着を明らかに見させて、かえって執着を使う境涯になって幸福になることを教えて下さった。
なぜならば、大御本尊様は、真の方便、知見波羅密を、ことごとく、具足しておられるからである。即ち権教、迹門、本門の仏の因行果徳等、あらゆるものを具足しておられるので、御本尊様を輪円具足あるいは功徳聚と申しあげるのである。
また、ここで、末法の衆生よ、と呼びかけられ、次のように説かれる。
御本尊様の御境涯は広大無辺で、迹門の仏の知見なんかとは比べものにならないほど深遠である。迹門の仏は、無量、無礙、あるいは力、無所畏、禅定、解脱、三昧というようなものを金部そなえており、深く無辺際のほとりに入って、一切の未曽有の法を成就しているというけれども、迹門の仏の分際では、まだまだ南無妙法蓮華経の境涯はわからないのだ。文底の本仏即ち大御本尊様は、このような迹門や本門の仏の力はもちろん、それ以上の高い法力をもっておられる。故にわれら末法の衆生は、大御本尊様を無二に信ずることによって、迹門や本門の仏の力以上の功徳をうけることができる。もちろん、迹門の仏のもっているような、四無量心とか四無礙智等は、われわれには全く必要がない。
末法の衆生よ。末法の本仏は、迹門の仏と違って、法を説くときには、「いろいろの分別をもったり、たくみに沢山の法を説いたり、言葉が柔らかで人々の心を喜ばせたり』はしないのである。説くところは、ただ南無妙法蓮華経の一法であり、折伏は厳父のごとく厳しい慈悲で説き、かえって人の心を怒らせるのである。しかしながら、われわれが大御本尊様を拝んでゆくと、御本尊様はいろいろの分別をもち、たくみに人生のあらゆる指導をして下さり、御本尊様に言葉がないから、やさしいような気がするのである。
また大きな功徳があるから、われわれの心を喜ばせて下さるのである。
末法の衆生よ。要点をとっていうならば、末法の御本仏は、いまだ、かつて、あらざる法、印度の釈迦も本門文上の仏も知らないところの、文底深秘の大法をあますところなく成就せられた。
大御本尊様の御境涯は非常に珍しく相手には解りがたい法であり、大聖人様だけが、よく御知りになっておられて、われわれにはわからないのである。しかし大聖人様は、釈迦のように『止みなん』などとはいわれず、われわれ末法の衆生に、あますところなく、三大秘法として御説きなされておられるのである。
仏と仏とのみ、きわめつくしたというが、そのきわめつくした迹仏の境涯は、非常に浅いものである。末法の御本仏のみが、宇宙にみなぎる、あらゆる諸法の実相をきわめつくされたのである。その諸法の実相を、根本的にあらわされたのが、御本尊様であり事の一念三千の法門であられる。
それは、いわゆる、諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等である。
御本尊様の一瞬の十如是の働きをみれば、如是相とは、日蓮大聖人の凡夫のお姿、如是性とは大聖人のあらゆる人々を救わんとされる御本仏の御精神、如是体とは大聖人の御生命、如是力は御本仏のすごい御力と大功徳、如是作は願いを何でもかなえて下さる御本仏の働き、如是因は、久遠元初のとき、この末法に御出現になって大法を説かれる原因を作っておられる。如是縁は、われわれ末法の衆生を縁として御出現になっておられる。如是果は、竜口法難で本仏の境涯を顕わされた。如是報は、御本仏として身延で平らかな九年の境涯を楽しまれた。如是本末究竟等は、如是相から如是報まで、ことごとく一瞬の御本仏の姿それ自体であらせられるということである。