一、法華経を読む心構え

 

 凡(およ)そ仏教を知るためには、教・機・時・国・教法流布の先後の五つを知らなくてはならぬ。三時弘経の次第を考うるに、小乗教・権大乗教・実大乗教は正法像法の時に弘まり、末法にいたって文底下種の法華経が弘まっているのである。

 しかして仏の出世は、みな法華経を説かんがためであって、正法の仏たる釈迦は法華経二十八品を説きもって本懐となし、像法の仏たる天台は摩訶止観を説いて、妙法蓮華経というべきを円頓止観と唱えて彼が出世の本懐となし、末法下種の御本仏日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の七文字の法華経を説いて出世の本懐とした。

 

 聖人御難事御書(一一八九頁)に云く、

『去ぬる建長五年((たい)(さい)(みずのと)(うし))四月二十八日に安房国長狭(ながさ)(ごおり)の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年((たい)(さい)(つちの)(とう))なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其の中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」等云云。

 

釈迦二十八品の法華経を、実によく読み切ったといわれるのは、天台大師一人である。

 故に章安大師の云く、

 『天竺の大論尚(なお)其の類に非ず震旦(しんたん)の人師(しんし)何ぞ労(わずら)わしく語るに及ばん、此れ誇耀(こよう)に非ず法相の然らしむるのみ』等云云。(観心本尊抄二三九頁)

 

 されば現代に法華経を読む者は、ことごとく天台に従って、これ以上には法華経の読みようがないものとされているのが通説である。しからば、日蓮大聖人は、やはり天台に従って、これを読んだかというに、決して天台と心を同じうして読んではいないのである。

 

 日蓮大聖人独自の立場によって、より深く、これを釈せられている。即ち文底下種の法門を明らかにされているのである。

 

 されば、太因妙抄(八七六頁)に云く

  『今会釈(えしゃく)して云く諸仏菩薩の定光三昧も(ぼん)(しょう)一如(いちにょ)の証道・刹那半偈(せつなはんげ)の成道も我が家の勝劣修行の南無妙法蓮華経の一言に(せつ)(つく)す者なり、此の血脈を(つら)ぬる事は末代浅学の者の予が仮字(かなじ)の消息を蔑如し天台の漢字の止観を見て眼目を迷わし心意を驚動し或は仮字を漢字と成し、或は止観明静・前代未聞の見に(ふけ)り本迹一致の思を成す、我が内証の寿量品を知らずして止観に同じ但自見の僻見を本として予が立義を破失して悪道に堕つ可き故に天台三大章疏の奥伝に属す、天台伝教等の秘し給える正義・生死一大事の秘伝を書き顕し奉る事は且は恐れ有り且は(はばか)り有り、広宣流布の日公亭に於て応に之を()(らん)し奉るべし、会通を加える事は且は広宣流布の為且は末代浅学の為なり、叉天台伝教の釈等も予が真実の本懐に非ざるか、未来嬰児の弟子等彼を本懐かと思うべきものか』云云。

 

天台の法門と日蓮大聖人の法門と、どう違うかということは、開目抄上(一八九頁)に云く、 

『一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり』云云と。

 

 すなわち日蓮大聖人の仏法は寿量文底の一念三千にして、天台の文上脱益の一念三千とは、全然異るものである。

 

 されば、日寛上人は三重秘伝抄に云く、

  『稟権抄(ほんごんしょう)廿一に云く「法華経と爾前と引き向えて勝劣浅深を判ずるに当分跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候」等云云。

 今謹んで案じて曰く一には爾前は当分・迹門は跨節なり是れ権実相対にして第一の法門なり、二には迹門は当分・本門は跨節なり是れ本迹相対にして第二の法門なり、三には脱益は当分・下種は跨節なり是れ種脱相対にして第三の法門なり、此れ即ち宗祖が出世の本意なり、故に日蓮が法門と云うなり、今一念三千の法門は但だ文底秘沈と曰う意は比に在り、学者深く思え云云。

 問う当流の諸師他門の学者・皆第三の教相を以て即ち第三の法門と名づく、然るに今種脱相対を以て名づけて第三の法門となす、此の事前代に未だ聞かず若し明文無くんば誰か之を信ずべけんや。

 答う若し第三の教相のごときは(なお)天台の法門にして日蓮が法門には非ず、応に知るべし彼の天台の第一第二は通じて当流の第一に属す、彼の第三の教相は即ち当流の第二に属するなり、故に彼の三種教相を以て若し当流に望む(とき)は二種の教相と成るなり、妙楽云く前の両意は迹門に約し、後の一意は本門に約すとは是れなり、更に種脱相対の一種を加えて以て第三と為す、故に日蓮が法門と云うなり』云云。

 

 以上のごとく、天台の三種の教相と、日蓮大聖人の三種の教相との間に、天地のへだたりがあるのである。

 すなわち天台の三種の教相は、第一は根性の融不融の相(迹門方便品等)第二は化導の始終不始終の相(迹門化城喩品)第三は師弟の遠近不遠近の相(本門寿量品)である。

 日蓮大聖人の三種の教相は、第一の法門は天台の第一・二の法門(迹門)であり、天台の第三の法門が日蓮大聖人の第二の法門(本門寿量品・文上脱益)であり、日蓮大聖人の第三の法門は、いまだ誰人もいわざる寿量文底の南無妙法蓮華経、すなわち文底下種の法門である。

 末法の今日、法華経を読まんとする者は、この点に深く留意し、末法適時の南無妙法蓮華経を根元として、依義判文の原理により、これを読破しなければならぬ。

 予、非才をも省みず、この講義を下す所以のものは、先輩の大学者、意を天台の観念観法に置き、日蓮大聖人の真意によらぬのを悲しみたるがためである。

 

 されば、予の講義せんとするものは、御義口伝・本因妙抄・百六箇抄等の秘書を基として、日寛上人の依義判文の流れを汲みて講ぜんとするものである。

 

 今、依義判文の大要を、その意を明らかにするならば、日寛上人、依義判文抄に云く、

  「明者は其の理を貴び闇者(あんじゃ)は其の文を守る、(いやしく)糟糠(そうこう)を執し橋を問う何の益あらん、而も亦謂える有り文証無きは(ことごと)く是れ(じゃ)()なりと、(たと)い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らざらんは之を用ゆべからざるなり、故に開山上人の口決に()らって謹んで三大秘法の明文を考えて文底秘沈の誠証に擬し以て後世の弟子に贈る、此れは是れ偏に広宣流布の為なり必ず其の近きを以て之を(ゆるが)せにすべからず云云。

 

撰時抄上に曰く「仏の滅後・迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・天台・伝教の未だ弘通せざる最大深稿の大法・経文の面に顕然なり、此の深法今末法の始め後五百才に一閻浮提に広宣流布」等云云。

問う夫れ正像未弘の大法・流布の正体・本門の三大秘法とは一代諸経の中には但法華経・法華経の中には但本門寿量品・寿量品の中には但文底秘沈の大法なり、宗祖何ぞ最大深秘の大法・経文の面に顕然なりと云うや、答う一代聖教は浅きより深きに至り次第に之を判ぜば実に所問の如し、若し此の経の謂れを知って立ち還って之を見る則は爾前の諸経すら尚本地の本法を詮せざる莫し・何に況や今経の迹本二門をや、天台・天師・玄文第九に云く「皆本地の実因笑果・種々の本法を用いて諸の衆生の為に而も仏事を作す」是なり、故に知りぬ文底の義に依って今経の文を判ずれば三大秘法宛も日月の如し故に経文の面に顕然と云うなり。

問う此の経の謂れを知るとは其の謂れ如何、答う宗祖云く「此の経は相伝に非ざれば知り難し」等云云、三重秘伝云云。

問う若し爾らば其の顕然の文如何、答う此れに開山上人のロ決あり今略して之を引き以って絹要を示さん云云、三大秘法口決に云く「一には本門寿量の大戒・虚空不助戒を無作の円戒と名づけ本門寿量の大戒壇と名づく、二には本門寿量の本尊・虚空不動定・本門無作の大定を本門無作の一念三千と名づく、三には本門寿量の妙法蓮華経・虚空不動慧を自受用本分の無作の円慧と名づく」云云、口決に云く「三大秘法の依文は神力品なり疏に云く於諸法之義の四偈は甚深の事を頌す云云、能持是経とは三大秘法の中の本門の妙法蓮華経なり、乃至畢竟住一乗とは三大秘法中の本門寿量の本尊なり一切衆生生死の愛河を荷負する船筏・煩悩の𡸴路を運載する車乗なり、乃至応受持斯経とは三大秘法中の本門の戒壇なり、裏書に云く受持即持戒なり持戒清潔作法受得の義なり」等云云略抄、秘すべし秘すべし仰いで之を信ずべし」云云。

 

(以上、戸田先生の妙法蓮華経講義……大白蓮華第四十二号より抜すい)