白蓮院支院落慶入仏法要(昭和二十七年七月二十七日 横浜・白蓮院鶴見支院)


寺院建立第一号を喜ぶ


 わたくしは、さきほど唱題しながら、さぞや恩師牧口先生は、この第一号の教会のできましたことを、お喜びなされていることと思い、涙にむせんでしかたがなかった。
 わたくしの念願は、鶴見に教会を建てることであったが、どうしても本部を建設せねばならぬ状態になり、やむなく教会を建てるのを第二義にまわした。

 この寺院建立にあたっては、種々困難なことがあったが、今回めでたく建設されたことは、まことにうれしく、喜びにたえません。


 顧みますれば、あの太平洋戦争の末に学会大弾圧がありましたが、そのとき幹部はぜんぶ投獄されてしまいました。
 鶴見においても、支部長の弟、孝君が投獄されました。出獄後、まだ中学生であった森田一哉君が、かつて牧口先生に二、三度お会いしたのみの感激を忘れず、わたくしをたずねてこられたが、このことにより、一哉君のいかに信心が深いかを知ることができます。


 鶴見支部がこのように多数の信者を得たのも、ひとえに一哉君の熱烈な闘志によるものである。わたくしは、一哉君を心から称賛いたします。


                  (昭和二十七年七月二十七日 横浜・白蓮院鶴見支院)

〔注〕明治三十三年以降、新寺院建設が当局から許可されず、日蓮正宗でも、やむなく〇〇教会という名称で三十有余の寺院が建立されました。戦後はそういうことはなくなりましたが、戸田先生は、長い間の慣習から新寺院のことを「教会」と表現されたものと思われます。