立宗七百年記念春季総会(昭和二十七年四月七日 東京・中央大学講堂)


日本民族を救わん


 大聖釈尊が、仏法流布に立たれた三千年前の事実をみますれば、じつに荘厳なるお姿であったと思う。その後、竜樹菩薩は、釈尊に劣ること数十倍であり、天台智者を拝するとすこぶる低きものに思われます。
 しかも、辺土日本において、伝教大師は、天台大師よりなお貧しくみえたといわれますが、彼は時の宮中の寵愛を受けられました。


 しかるに、日蓮大聖人様は、この上もなく貧乏で、時の執権に憎まれ、平左衛門尉にひきたてられ、三類の強敵のなかに、正法流布の大願を立てられ、身命を惜しまず戦われたのであります。


 われわれは、大聖人様より数段劣り、いやしく、貧しく、くだらないものであるというべきである。一番の欲ばりども、あなた方は、りっぱな連中を折伏するときの、相手の顔を、いま思い起こしてごらんなさい。


 釈尊いわく「欲ばりで怒りっぽく、法華経のなにものたるや、仏教のなにものかも知らず、自慢している」と。


 やきもちばかりやいて、家には御本尊様がいる、亭主がいると自慢している。この悪人どもの集まったなかに、かかる不肖なわたくしが、みなさまの先頭に立つ名誉を担ったものであります。


 開目抄に縷々として申されてありますが、三類の強敵のなかの、俗衆増上慢、学問もしなければ、仏法も研究しないで、わがままばかりいっている。道門増上慢のやから、すこし仏法がわかるようなれども、うそつき、泥棒、大悪人であります。日蓮大聖人様の御時には、真言、念仏、律、禅に摂して申されたが、今日では、天理教、仏立宗、立正交成会、霊友会である。


 僣聖増上慢、三類の強敵充満するならば、そこに法華経の行者がいなければならない。
 

 開目抄の結論に「疑って曰く、若し日蓮を法華経の行者というならば云云」、法華経の行者といえど、伊豆の流難、佐渡の流難、寺も用いられない。寺は弟子にまかせられ、御自身は折伏の本行を述べたてられていた。


 ご利益がない、末法の法華経の行者とはいえない、といっているが、法華経の行者とは日蓮大聖人様のことであられ、総じていえば、他宗に向かっては、われわれも行者なりとの大確信に立って述べることはよいが、しかし、自ら心慢じて、法華経の行者ということはいけない。


 日蓮大聖人様は、なぜ末法の行者でありながら、留難、貧乏をなさるか。これはわが身、過去世の宿習であると、御自身、法華経の行者たる覚悟を示されてある。


 御書(開目抄)を読んでいただきます。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(御書全集二三二㌻)


 わが宿習なりと、覚悟をきめるならば、諸天も捨てたまえ、諸難にもあえ。不肖戸田も、命を捨てる。きたないばかな命は、いつにても捨てよう。南無妙法蓮華経のために、いつでも供養申しあげたいと思う。


 身子とは、インド第一の智者舎利弗が、菩薩行をたて、目の欲しいバラモンに目をやった。目が清らかだったが、とってみたらくさく、パッと捨ててつばをはきかけた。そこで、舎利弗は人を助けようということをやめた。三五の塵点をへたるは、この間、邪宗の坊主、悪知識にふれたゆえである。


 善かろうと悪かろうと、御本尊様を受持するなら、かならず幸福になる。歯をくいしばって信仰してごらんなさい。もしならなかったら、わたくしの首をあげましょう。いかなる誘惑にも負けてはなりません。念仏を称えて、法華経を捨てるなら、日本国をゆずろうという大誘惑があろうとも、というのです。わたくしのところにくる人で、生活の面をよくしてやるから信心をやめろといわれ、どうしたらよいだろうとくる人がある。


 父母の首をはねん、念仏を称えなければ、おまえの父母の首を切るぞ、このような、いかなる脅迫の難が起ころうとも、(わたくしに会通を加えれば、日蓮大聖人様は、日本一親孝行な方である。大聖人様は、本仏の自覚をもっていらっしゃるが)これ以上の、もうひとりの仏が現れて、わが義を破られるならいたしかたないが、絶対に迫害、大難に従わない。大聖人様の義が破られることは大難であり、舌をかむか、地獄に行かなければならない。その他の難は小難であります。これがいえるか、この大精神が学会の精神であります。


 われ日本の柱となろう、日本の国の主君である。日本の国の眼目となろう、国の指導者、師の位なり。われ日本の大船とならん。これ親の位。

 

 主師親の三徳としての日蓮大聖人様のこの気迫の、百万分の一の気迫をもって、日本民族を救おうではありませんか。
                           (昭和二十七年四月七日 東京・中央大学講堂)