第二代会長就任式(昭和二十六年五月三日 東京・常泉寺)


会長就任の挨拶


 わたくしがきょう会長に就任できたことは、正直いって嬉しい。牧口先生時代の初代理事長として、かならず次に会長になる宿命をもつと予見していたが、どうしてもいやであった。


 理事長の席を矢島君にゆずったときも、小平君に「先生、また逃げるんではないか」といわれたくらいで、会長だけは絶対やるまいと思っていた。それで、当時、第一に寺坂君をあげたが、うぬぼれてダメ。次に、野島君を副理事長までにしてみたが、これも失敗。これというのも、牧口先生をあまりにもよく知っていたからであり、わたくし自身に対して臆病であったためでありました。


 終戦後、牢より出てきたときは、東京は焼け野原、学会も荒涼、そのときにきたのが柏原、和泉の両女史であり、このとき、広宣流布は絶対にやることを決心したのでありますが、まだ会長だけはやりたくないと考えておりました。


 牧口先生は、謹厳実直な方で、わたくしとは性格が正反対で、夜中にいたるまで先頭に立って折伏をつづけられ、会員は後のほうでヤアヤアと掛け声ばかりであった。わたくしは、先生と反対に、後に立ってみなさんを指揮し、広宣流布に邁進したい。


 天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く御教書を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、一人一人が邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに御本尊様を持たせることです。こうすることによって、はじめて本門の戒壇ができるのである。


 御本尊様の真の功徳がわかる究竟即の位の前の、分真即が、すなわち折伏することなので、これが真にあなたたちのためだから、広宣流布をやりなさいというのであります。お勤めをして、御本尊様に、あれをくれ、これをくれと、功徳をねだるような横着な信心ではなく、ほんとうに折伏に身をいれて、人々に悪口をいわれ、バカにされて、ますます御本尊様を護持したとき、そこに厳然として功徳が現れるのです。

 初めから、御本尊様は、拝んでくれなどとはけっしていっておられません。われわれのほうから、どうか拝ませてくださいと願ったのです。

 一対一のひざづめ談判によって、広宣流布は成し遂げられるのである。
 

 以上、述べたことは、みんな自分のためであり、いま、わたくしたちは、大きな本門の戒壇を建てるための、一つ一つの土台石を運んでいるのであります。みなさん、真に命をかけて、御本尊様へご奉公をしようではありませんか。
                 (昭和二十六年五月三日 東京・常泉寺)


第二代会長就任式(昭和二十六年五月三日 東京・常泉寺)


会長就任の決意
 

 故牧口先生の後、不肖わたくし、会長の任にあらざれども、ふり返りみるに、学会と立正交成会は同じく正と邪の道を開き、しかもいまだかれら邪宗をつぶすにいたらず。このまま便々としては、大御本尊様よりお叱りあることを恐る。


 ここに、不思議のことありて大確信を得、会長就任の決意を固めたしだいである。大聖、宗旨御建立の後、立正安国論をおしたためあって七百年、大陸は中共勢力の席巻するところとなり、朝鮮に世界の兵力集まっての戦乱である。


 このとき、手をこまねいて見すごすならば、霊鷲山会にて、いかなるお叱りあるべきか。しかれば、無間地獄疑いなし。今後、どしどし無理な注文をだすことと思うが、ぜひ、通していただきたい。


 私が生きている間に七十五万世帯の折伏は私の手でする。もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てていただきたい。
(昭和二十六年五月三日 東京・常泉寺)