牧口初代会長七回忌法要 (昭和二十五年十一月十二日 東京・神田の教育会館)


牧囗先生七回忌に


 思いかえせば、三十年前、わたくしが二十歳、先生が四十九歳の御年のとき、先生にお目にかかりました。それ以来、先生とは、師とも、親とも、主従ともつかぬ仲でした。四回の先生のご難にお供いたしました。


 第一回は、西町小学校より左遷のとき、第二回は、三笠小学校より左遷せられたとき、第三回は、芝の白金小学校より校長として退職を余儀なくせられたときです。第四回目は、昭和十八年、軍部の圧力により、法のため巣鴨拘置所にお供したときであります。

 それは、当時、軍部に、先生は、日本を救うことは天照大神を拝むことではなく、ただ、文底秘沈の大法・事の一念三千の南無妙法蓮華経を唱えることであるとの折伏が因をなして、同志十九名が拘置所につながれたのです。


 思いかえすれば、先生の価値学説ご研究のとき、先生は、
 「戸田君、小学校長として教育学説を発表した人は、いまだ一人もいない。わたくしは白金小学校長を退職させられるのを、自分のために困るのではない。小学校長としての現職のまま、この教育学説を、今後の学校長に残してやりたいのだ」と申されました。
 忘れもいたしません。夜の十二時まで、二人で火鉢をかこんで、わたくしの家で、こんこんと学説の発表について語りあいました。
 「よし、先生、やりましょう」と申しあげると、先生は「戸田君、金がかかるよ」と申されました。
 わたくしは「わたくしには、たくさんはありませんけれども、一万九千円のものは、ぜんぶ投げ出しましょう」と申しあげ、また「先生の教育学は、何が目的ですか」といいますと、先生はおもむろに「価値を創造することだ」と申されました。
 「では先生、創価教育、と決めましょう」というぐあいで、名前も一分間で決まったのです。


 以来、幾多の変遷をして、印刷にとりかかりましたが、思うようにできず、先生もひじょうにお苦しみになりました。そこで、わたくしが「先生、わたくしが、やりましょう」と申しましたが、先生は、わたくしに文筆の能がないのを憂えて、わたくしに苦労をかけまいとして、こばまれましたので、わたくしは「先生、戸田が読んでわからないものを出版して、先生は、だれのために出版するのです。先生は、世界の大学者に読ませるのですか。戸田が読んでわかるものなら、わたくしが書けます」といったことをおぼえております。


 先生の原稿は、ときおり先生が思いつくままに、ホゴ紙のようなものにきれぎれに書いたものですから、二度も三度も同じようなものも出てきます。重複するものはハサミで切って除き、わたくしの八畳の部屋いっぱいに、一きれ一きれならべてみると、まったく一巻の本になるのです。わたくしは、先生の原稿を、第三巻まで整理いたしました。
 その後、わたくしの手で第五巻まで出版しまして、総会をかさねること数回、先生もわたくしも、この会揚がこの信仰者によってあふれることを念願したのでした。


 先生といえば戸田、戸田といえば先生といわれた仲で、昭和十八年の嵐にあったときも、もうこれで、先生とお会いできないと思っておりましたのに、警視庁の調べ室でいっしょになることができました。そのとき先生は、家から送られた品物のなかに、カミソリがはいっておりました。先生は、それをいかにもなつかしそうに、裏返し、表返しして見ていたのです。なにかの思い出でもあるかのように、ほんとうに恋しそうにながめているのです。
 そのときに、同志稲葉君を蹴った刑事で斎木とかいったと思う男が、ものすごい声をはりあげて、「牧口、おまえは何をもっているのか。ここをどこと思う。刃物をいじるとはなにごとだ」とどなりつけました。
 先生は無念そうに、その刃物をおかれました。身は国法に従えども、心は国法に従わず。先生は創価学会の会長である。そのときの、わたくしのくやしさ。しかし、仏の金言むなしからず。わたくしが帰ったとき、斎木のいちばんいとしいと思っていた子どもが、頭から貯水池にはいって死んだのです。ちょうど三年以内です。そのときのわたくしの恐ろしさ。今日、わたくしは初めてこのことを申します。


 それから、巣鴨に移されるとき、先生と対面がゆるされました。わたくしは「先生、おからだをたいせつに」と申しました。わかれて車に乗るとき、先生は「戸田君は、戸田君は」と申されたそうです。
 わたくしは若い、先生はご老体である。先生が一日も早く出られますように。わたくしはいつまで長くなってもよい。先生が、早く、早く出られますように、と唱えた題目も、わたくしの力のたりなさか、翌年、先生は獄死されました。
「牧口は死んだよ」と知らされたときの、わたくしの無念さ。一晩中、わたくしは獄舎に泣きあかしました。


 先生のお葬式はと聞けば、学会から同志が、藤森富作、住吉巨年、森重紀美子、外一、二名。しかも、巣鴨から、小林君が先生の死体を背負って帰ったとか。そのときの情けなさ、くやしさ。世が世でありとも、恩師の死を知って来ぬのか、知らないで来ないのか。
 「よし! この身で、かならず、かならず、法要をしてみせるぞ!」と誓ったときからのわたくしは、心の底から生きがいを感じました。


 先生の生命は永遠です。先生がいま、どこにいられるか。猊下の御導師により、門弟らがともどもに唱える題目、先生はこの仏事につながれております。ここは寂光土です。先生の生命は、こつぜんとしてここにあらわれております。たとえ、かりにも、かりにも先生が地獄の業火をあびていようとも、今日、かならず、かならず、仏果をえられたものと確信いたします。
 きょう、みなさまとともに、先生の法要をなしえたことは、戸田一人の力ではありません。
みなさまのお力と、心から感激いたしております。
              (昭和二十五年十一月十二日 東京・神田の教育会館)