「小樽問答誌」 ― 序


 昭和三十年三月十一日、北海道小樽市公会堂において創価学会と身延派日蓮宗とが、一千余名の聴衆を集めて公開問答を行い、終始一貫して創価学会の大勝利に帰した。当日の二時間余にわたる問答の記録はテープーレコーダーによって筆録し、なお問答前後の諸記録を集めて一書を編纂し「小樽問答誌」と名づけて後世におくらんとするものである。


 大石寺門流にあっては徳川時代の末期に永瀬清十郎が出て盛んに諸宗の邪義を破折し、「砂村問答」を後世に伝えられた。また明治時代に入っては横浜の信徒がかの「横浜問答」を闘って、田中智学を完膚なきまでに破折した。いずれも赫々たる勝利の記録であったのである。


 創価学会は創立以来、邪宗邪義の破折と正法の広宣流布を唯一の大目的として日夜闘争を続け、頽廃の極にある戦後の宗教界に盛んに警鐘を乱打して絶えずその邪教邪義を破砕してきた。

 

 数百にのぼるという乱立した各宗派はただ自己の生活や利益をのみ事として、民衆を不幸のどん底へ陥れ、また先祖伝来の既成宗教は法力も実践力もことごとく失ってただたんに葬式と法事によって、僧侶という非生産階級が細々と生活しているにすぎない。まことに日蓮大聖人が「世皆正に背き人悉く悪に帰す」の世相そのものであった。

 

 加うるに敗戦の結果、大衆は未曾有の生活難に襲われ、道義は地に堕ち、さながら地獄の様相を呈して、人々は生きる目的も希望も失い、ただその日その日を餓鬼のごとく畜生のごとく生き延びているにすぎなかった。


 この時に地涌のごとく出現した創価学会が全国に大折伏の法戦を展開するや、各地に俗衆増上慢・道門増上慢の徒輩が蜂起し、昭和二十九年に入っては身延を中心とする各派の日蓮正宗対策、創価学会批判の動きが目立つようになってきた。

 

 もとより宗教の正邪は宗祖大聖人の御抄に照らして、厳しく判定せらるべきであり、創価学会の主張と彼等邪教徒の主張とを、堂々と公場において対決することはもっとも望むところである。しかるに宗祖大聖人の御在世に勘えても、邪宗の徒は容易に応じようとしない何百年来の虚偽と増上慢のうえに安眠してきた夢を捨てようとしないそれゆえに創価学会の出現にはただ恐れ怖じて、法義の争いよりもたんなる罵詈雑言を並べていたにすぎないのである


 このような時期に北海道小樽において、はからずも公開問答が開かれることになったのは、第一に創価学会小樽班の積極果敢な大折伏の結果であり、第二には北海道の身延派の学会に対する認識不足によるものであった。これらの経過は本書の「第一部」によって把握されたい。


 さて「第二部」に収録した二時間有余の公開問答は、徹底的な大勝利であった。これを勝利といわなければいずこにも勝利というものはないと信ずるものである。これはひとえに教学部において絶えず研鑚の功を積んできた成果であり、また青年部の諸子が純真に信心と折伏に励み、たえず一体となって闘争してきた訓練のいたすところであった。

 

 余はここに深く満足の意を表し、さらに今後の重大にして困難な大闘争にそなえ、よりいっそうの勇猛精進を期待するものである。


 さてこの勝利の記録に直接参加した者の、感想その他を集め、また問答終了後の動きを集めたものが「第三部」である。その後の身延派が学会対策におおわらわとなり、末寺における創価学会との法論を禁止するなどは、当初から当然に予想されたところである。むしろ小樽問答の真の意義、その真価というものはさらに何年か後、歴史の流れの上から正しく判定される時が来るであろう。じつにこの「勝利の記録」は創価学会史にはいうまでもなく、日蓮正宗史にも、否、日本仏教史にも特筆されるべき一頁であったのである。


 このような意味において、本誌は正確な資料本位に編纂し、正しい歴史を後世に伝えることを眼目として「小樽問答誌刊行会」の手により、発刊される運びとなったものである。
                           (昭和三十年四月八日)


 

「観心本尊抄講義」
 

 序
 

 御書十大部講義の第四巻として観心本尊抄講義をここに脱稿し発行の運びとなった。
 この観心本尊抄に明かされるところの大御本尊は一切の諸仏・一切の諸経が生みだされる根源の大御本尊にして、一切の諸仏・諸経の帰趣するところである。ゆえに十方三世恒沙の諸仏の功徳・十方三世微塵の経々の功徳は皆ことごとくこの文底下種の大御本尊に帰せざるはないのである。

 

 印度応誕の釈迦仏は一代五十年に八万法蔵を説くと雖も、その出世の本懐たる法華経本門寿量品の文の底にこの本尊を秘し沈めて、ついに三大秘法の名目すら説きいだすことがなかった。

 しかして末法に入り宗祖日蓮大聖人は文永十年四月二十五日佐渡において当抄を述作あそばされ、弘安二年十月十二日にいたって本門戒壇の大御本尊を御建立あそばされた。

 これによって終窮究竟の出世の御本懐を達成せられるとともに、文底下種事行の一念三千の大御本尊が始めて世に建立せられ、一切衆生即身成仏の大直道がここに瞭然と開かれたのである。


 このように当御抄は仏教哲学の真髄であり極理中の極理なるがゆえに、古来幾多の学者はしばしば当抄の解釈を試みたが、いずれも宗祖大聖人の奥旨に到達したる者はなく、ただ一人大石寺第二十六世日寛上人こそ宗祖の奥底を残りなく説き明かされたのである。じつに日寛上人以前にその人なく、また日寛上人以後においてもそれ以上に説明すべき哲学の何ものもないと吾人は固く信ずるものである。ゆえに本講義も日寛上人の御講義を唯一の依拠として終始したしだいである。


 しかるに生来の凡愚、ひたすら本文をけがすことのなきよう祈りつつも、なおその義を尽くさざるやを恐れるものであるが、願わくはともどもに研鑚の功を積み「一見を歴来るの輩は師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん」の御聖旨に順ぜんと誓うものである。
                   (昭和三十年六月十三日)