「開目抄上講義」
序
昨年立宗七百年の奉祝を機として日蓮大聖人の御書十大部講義の発刊を決意し、すでに第一巻立正安国論を刊行し、今ここに第二巻開目抄上巻が完成する運びとなった。
開目抄は宗祖大聖人が佐渡における御述作であり、大聖人は御自ら開目抄を「此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なり」とも、また「かたみともみるべし」等とおおせられ、さらに「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」と決定せられている。
すなわち大聖人出世の御本懐たる三大秘法の御本尊建立に先立ち、本書において人の本尊を開顕したまい、日蓮は末法の本仏なりと御宣言があって後、観心本尊抄において法本尊を開顕あそばされたのである。ゆえに開目抄の研鑚はじつに宗祖大聖人の最要深秘の御内証を拝することであり、富士門流の御相伝を知らざれば絶対にその肝心に触れたてまつることは不可能である。
この点については本講義の解題にも講義にもしばしば述べられているのであるが、読者諸子はさらにさらに研鑚の功を積まれんことを希望する。
思うに学会の教学は宗祖大聖人の正しい教学を求め求めて暫くも廃せず、ついに本書の講義にまで発展してきたことは、余のもっとも慶びとするところである。
本書の著述にあたり、堀日亨上人の御監修と序文および解題を賜られたるに深く感謝したてまつるとともに、学会教学部長小平芳平氏の協力および教学部員諸氏の援助に厚く感謝する。
(昭和二十八年六月)
「価値論」
補訂再版の序
恩師故牧口常三郎先生が獄中に逝いてすでに十年、来る十一月十八日をもって十周忌を迎えることとなった。先生のご一生を通じてとくに先生の偉大なご功績の思想的な背景となったものは、じつにこの価値論である。
世間において価値問題が最初にとりあげられたのは、経済学においてであった。しかして経済的価値は利の価値である。従来の哲学は真善美の追求を人生の理想となしてきたが、真理は価値でないのみならず、われわれのもっとも身近であり、しかも価値問題の本質となるべき利の価値を忘れていたことが、根本的な誤りである。先生は早くもこの誤謬を発見して、真善美にかわるに利善美の体系を打ちたてられたのであった。
先生は広くこれを世に問うために、創価教育学体系の出版に着手されたのであったが、当時の哲学界はまったく西洋流の哲学に押されていた。しかも、このようにドイツ哲学に傾倒している世界の哲学界が先生の学説を理解するためには、先生の没後三十年はかかるであろうと申し上げたことがあった。これを聞かれた先生は、多少ご不満のようであったが、事実はそのとおりになろうとしている。
今ここに先生の十周忌を期して、先生の価値論を校訂増補し、世界の学界に問わんとするものである。ただし先生のご出発は教育学にあり、価値論の著述に当たられた当時も、この面に重点があった。しかし晩年には生活指導法の原理として価値論をお説きになっている。今余はこれを承継して世に問うものである。
(昭和二十八年九月)
「開目抄下講義」
序
御書十大部講義の第三巻として開目抄下巻をここに脱稿し発行の運びとなった。
開目抄上巻はすでにたびたびの講義を通じて創価学会員のすみずみにまで浸透し、ついで下巻もまた学会員の一人一人が充分に研鑚の功を積み固く身に体して、広宣流布大願成就の大闘争に奮起せられんことを祈るものである。
本御抄は上巻においてもしばしば述べられてきているとおり、末法人本尊の御開顕の御抄であらせられる。ゆえに「一心欲見仏、不自惜身命」のたゆまざる信心修行があってこそ、初めてその御正意に到達したてまつることができるのである。
時あたかも創価学会の偉大なる発展に対して、俗衆増上慢に加えて道門増上慢がしだいに各地に蜂起してきており、学会員は今こそ三類の強敵の実体を真に見きわめることが肝要である。
釈迦・天台・伝教の時代にはいかなる怨敵が法華経の弘通を妨害したか。しかして末法に入り日蓮大聖人の御時代には誰々が三類の怨敵として、大聖人を迫害したてまつったか。しかして日蓮大聖人は、弟子どもに対してどのように御教訓あそばされるとともに激励あそばされ、かつ御自身はどのように御決意をお述べになっているか。
このように、われわれの信心・折伏に当たっての最大眼目が、当抄に詳しく説き明かされているゆえ、折伏をもってその使命となす創価学会員は必ず当抄を身にあてて熟拝せらんことを希望するものである。
(昭和二十九年十月)