「立正安国論講義」
 

  序

 本因妙の教主末法の主師親であらせられる日蓮大聖人の御遺文中、その十大部は宗祖大聖人教義の肝要であって我等門下生必読の書である。しかるに戦後学会再建以来今日まで、正しくその教えを承る由なく数年を過ごしてきたのであるが、東京、地方を問わぬ学会活動の発展とともに、創価学会の教学はこの十大部の講義を要望してやまなくなってきた。これはひとえに「行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ云云」の御教示が、折伏活動の実践のなかから身にしみて有難く拝せられる人々の求めてやまない声なのである。


 幸いにも伊豆畑毛に日蓮正宗教学の巨匠堀日亨上人猊下いまし、余がごとき凡愚の徒の懇請を入れられて正しくその読み方を教導せられ、かつこの十大部講義録の監修の立場にお立ちくだされたので、余ここに勇躍してこれが完成に取りかかったのである。
 

 第一巻立正安国論は日蓮大聖人御書中の巨星であって、末法の一切衆生に対する強烈な指南書であり一大予言書である。御著作以来七百年になんなんとするこの御書は、当時の世相を物語って余すところなく、じつに立派な金剛不壊の明鏡と称すべきである。


 この一大明鏡をもって現代の世相を映すに、また余すところなきものがある。すなわち邪宗義の横行、国を挙げて頭破七分の現象、これの起因する世相の混乱、敗戦後の経済不安、労資の対立等々は、ことごとく末法の仏法、すなわち文底秘沈の大法・文底下種・三大秘法随一にして、末法本仏日蓮大聖人出世の御本懐であらせられる、弘安二年十月十二日御所顕の本門戒壇の大御本尊をないがしろにしたことから起こっていることが、はっきりと映しだされるのである。
 顧みるに、七百年近い昔に日蓮大聖人は民衆が飢饉・疫癘・地震・大風・大火に苦しめられているのを見て、仏法まったく地に堕ちたりと断じられたのである。
 念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と釈迦仏法がついにその功徳を失い、今まさに末法に興行せらるべき本尊の出現に際し、釈迦仏法を捨てよ、末法の独一本門の本尊を信ぜよと呼号あそばされ、この末法の仏法を尊信せざるが故に飢疫天変等種々の災難があるのだと断定せられ、かつ仏法の定規に照らして、今このままに釈迦仏法を信じ続けるならばますます他の災難が現れるであろうと予言せられたのである。

 

 ここに他の災難というのはすなわち自界叛逆・他国侵逼の二難であって、「余に三度の高名あり」とおおせられたのはこの御予言を指しての御言葉である。賢人聖人に非ずんば未来を予言すること能わず、日蓮大聖人は御本仏にていませばこそ、断じて未来を予言し、御言葉どおりに自界叛逆難あり、他国侵逼難が実現したのである。時の上下の人々がこの御予言を誠実な気持ちをもって信じて大聖人の教えを一国に流布したならば、あの時代からいかに日本が栄えたことであろうか。


 かかる貴き日蓮大聖人を伊豆へ流罪し、由比ヶ浜にして頸を切らんとし、荒涼の佐渡の孤島へ流し奉ったことはまことに恐れ多いことではないか。この大謗法に対して法罰厳然と現れ、民衆塗炭の苦しみがその後数百年も続いたのは誰の罪となすか。

 とまれ、このような迫害のなかにおいて日蓮大聖人は末法の仏法を護持愛念し、民衆を憐れむがゆえに信ずるところを流布せんと御一生を通じて御苦心あそばされていたのである。
 

 開目抄には「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(御書全集二三二㌻)


 いかにも堂々として嘆辞を絶する威厳に満ちみちた御言葉ではないか。ただただ末法万年尽未来際の主師親たる御仏の大確信を有難く拝する以外にはない。
 大聖人世を去られて六百有余年、あれほど懇篤に末法の真の仏法大良薬を奨められてあったにもかかわらず、まことに爪上の土のごとくごくごく少数の人にのみ信じられて大多数の人々はこれを信じなかったがゆえに、じつに七百年近い昔の予言が適中してアメリカ軍による日本国土の占領という他国侵逼難が顕れたのである。

 

 占領七年にして名目上国家の独立は回復したとはいえ、いままた共産党の動き、労資の闘争という自界叛難が進行しつつある。今後も大聖人遺附の正しき末法の仏法が流布されなかったならばますます民衆の困窮が加わるであろう。
まことに憂うべきことではないか。


 世上の識者のなかには立正安国論はたんなる日蓮大聖人の片寄った考え方であると見る向きがあるが、これはまことに浅はかな僻見であって、同論こそ厳密な科学的理論と現象との一致をみた前人未踏の書であり、宇宙観社会観よりして寸分狂いなき正しき哲理なのである。また安国論をたんなる観念的な哲学論であると考える向きもあるが、もちろんこれまた真実を認識しえない僻見にすぎない。立正安国論こそ国家安穏・天下泰平の一国治術の大法則である。


 願わくは諸賢、本書を熟読翫味せられんことを望み、日蓮大聖人の大精神が一日も早く、五濁の一国に広宣流布せられんことを願ってやまない。
                          (昭和二十七年十二月)