五、生活における実証
(1)
人生は畢竟価値の追求である。その価値の獲得実現の理想的生活は幸福である。したがって幸福生活への指導を目的とする社会科学の職能は、価値創造能力の豊富なるいわゆる有価値の人格を養成することにあるのはいうまでもない。
しからばその価値の創造能力はいかにして涵養されるべきか。
思惟の法則を研究するのが論理学であり、それによって認識作用が指導されているのであるが、しかれば評価の法則も見いだされないわけがない。すなわち価値判定の作用を種々様々な場合から比較総合して、その間に行われている一定不変のものを抽象するならば、本論で縷々述べてきたごとく評価作用批判の原理が成立するのであり、さらにこれは創価作用指導の原理となるであろう。
さて評価の法則はいかにして見いだすべきか。主観的評価に形式的の標準を設けることは困難であるが、具体的なる比較によって、甲よりは乙、乙よりは丙というごとく、順々に比較総合してゆくことにより、そこに万人共通の一致点を客観的標準として価値創造の原理となすのである。
ここにわれわれがいまいちど評価作用を再考するにあたって注意すべき点は、評価作用における意識的と無意識的との区別である。対象の善悪・美醜・利害を識別するとともに、なぜに愛好・憎悪の感情をもってそれに反応するかの理由を意識している場合と、しからずして、これという理由ははっきりしないが、ただなんとなく「好きだ」「嫌いだ」と純然たる感情的の評価をなす場合である。
また第三の場合は、理性的には道理として服従しなければならないと知りながら、ただなんとなく「虫がすかぬ」「気が進まぬ」という場合もある。
このようなわれわれの評価作用の分析考察は左の二種類となる。
一、意識的評価作用……理性と感性と一致の場合(1)
二、無意識的評価作用 … 理性と感情との不一致の場合(2)
… 純然たる感情のみの場合(3)
… 理性と感情と背反する場合(4)
第一の意識的評価作用は、もっとも通常のものである。このときには認識と評価とが個々別別にならない。
第二の場合は、意識的に評価している人が、何かの機会に偶然に無意識で評価し、したがって理性と感情の不一致をきたす場合である。
第三のは、幼児などにみられるもので、感情の発作のみによって評価がなされるのであり、
第四は、神経衰弱症やヒステリーによくみられる評価作用である。支配階級が感情興奮のままに輩下にあたり散らしたり、輩下の者が上級の者に対して心にもなき追従世辞につとめる畜生根性もこれである。
(2)
個人は、利か害かの対象には正常な価値判断をなしやすいが、善か悪かの判定は困難であり、正当をかく場合が多い。
それは善と悪とが要素たる個人と、その集合によって成り立つ全体との対立の際における評価の標準であり、評価後の価値であるからである。
もし善悪の評価を主観的に多数決によって判定するとなれば、悪人の一票と善人の一票とは同一の価値となる。個人の利益と対立する場合に、個人利に目がくらんでしまうところに小人・悪人の特質がある。その小人・悪人の評価は、全体観をもつ善人とは反対の評価をなすのである。
しかしてその評価の標準はいかん。主観的評価には形式的標準を設けることは困難であるから、具体的な行為を比較してゆく以外にない。しかるにこれを多数決によるから、その結果について理由を説明することができなくなる。多数決は善悪利害の判定の標準とはならない。たんにある行為に対する責任の分担と解すべきであろう。
ある個人の人格を評価することも、善悪と同様に困難である。とくに直接の利害の関係者であっては、ますます公明正当な判断が困難になる。
ゆえに直接に利害関係がなく局外中立で、自分という個我を超越して全体を代表しうるものが、よくその判定をなしうる。しかし実際にはそのような人がありえないならば、多数決によって決定する以上の方法はないようである。
評価問題は多数決でよい。けれど認識問題に多数決は妥当でない。真理は主観的の感情をもって判定すべきでない。冷静に客観視して、是か非か正か邪かの二者其一に認定されるべきものである。と同様に、多数が承認したからといって、かならずしも価値の真理が決定されるのではない。
もしそれによって価値の判定がなされたなら、そのなかより時間・空間にわたって一定不変の要素を抽象し、これを真理と名づけるのである。
(3)
「価値をいかに創造するか」― これが創価法の原理ともいうべきである。
建築をなすにあたり、綿密な設計、見積等をしてから取りかかる。いきなり取りかかっては失敗するからであるが、このように応用科学は創価法の学である。
利の価値を創造する学として経済学があり、善の価値を対象として倫理道徳がある。
価値創造の作用を研究の対象とするにあたっては、創価過程における因果法則を見いだそうとする。すなわち、価値創造という人間の働きを容易ならしめんがため、従来における成功失敗の事実を検討し、なぜに成功したか失敗したかの原因を研究して、因果関係を明らかにし、よってもって、価値創造の法則に到達し、後人の応用に資するための学が、すなわち応用科学である。
このようにして、外界に対する研究が進められると同時に、内面的な生命に対する研究をゆるがせにすべきでない。
仏教の極理として説き明かされている一念三千の法門は、あらゆる科学の研究をはるかに超越した深奥の哲理であり、ここにおいて初めて、生命の実相が明らかとなる。
弘の五にいわく、
「一念の心において十界に約さざれば事を収むること偏からず。三諦に約さざれば理を摂ること周からず、十如を語らざれば因果備わらず、三世間無くんば依正尽きず」と。
妙楽大師はじつにこのように説ききっているのであり、西洋哲学の認識論等の遠くおよばず想像をすら絶した根本哲理である。しかも日蓮大聖人は、これを実生活のうえに実践して、個人も社会も、ただちに成仏の最大幸福を獲得すべき実践の道を確立せられたのである。
かくして人間の欲望を無視してはいかなる価値も成立することはないし、またいかなる価値の研究も、人間の生命を無視して論ずることは、架空の観念論にすぎないことをよく認識すべきである。
しかして評価法と創価法の原理が確立し、人間の生命を説き明かす真実の仏法が流布されたときに、初めて無上最大の幸福なる寂光土が建設されるのである。
如説修行抄にいわく、
「法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(御書全集五〇二㌻)
〔注〕この論文は、牧口常三郎著、戸田城聖補訂の「価値論」に収められたものです。
当初、「価値諭」は、初代会長牧口常三郎先生の「創価教育学体系」の第二巻として昭和六年三月に発刊されましたが、さらに第二代会長戸田城聖先生によって牧口先生の十回忌を期して全面的に補訂され、昭和二十八年十一月に刊行されました。その第六章が、この「生活指導原理としての価値論」であり、これは牧口先生の所説を踏まえたうえでの、戸田先生の書きおろしに近い内容であるため、本全集に収録しました。