四、宗教の価値判定

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 ここにいたって、なぜに宗教を論ずる必要があるか。それは本論の目的とする価値と幸福とが宗教なしにはまったく考えられないからである。

 さらに従来の学者も一般人も宗教を美醜・利害・善悪の価値判定の規準に照らして判定することを知らないから、すべてが宗教に迷ってせっかくの幸福を取り逃がし、苦悩と迷妄に沈んでいるからである。宗教に対して無知であったり、あるいは一部を見て全体と錯覚していたのでは、幸福を論ずる資格がないのである。


 宗教とは、人間が自分の知識では判定がつきかねても、対象が美利善の価値ありと信じて、その教えどおり実践することである。

 

 いいかえれば、宗教とは各人の生活を律する根本の教えである。ゆえに宗教は認識の対象ーすなわち学問の対象ではなくて、ただちに信じて生活のうえに実践される評価の対象であり、価値観によって判定されるべき性質のものである。
 

 以上の趣旨をさらに闡明にするため、世間一般の宗教観を批判しつつ、正確な宗教観を把握しようと思う。


 ① 無神論
 世間には「神も仏もない」といっている人がいる。これに対してわれわれも権教方便の神や仏はいないと主張する。すなわち神様がこの世を創造し、人間や地球を創った神様が現在どこかにいて、この世を支配しているとか、あるいは西方十万億土に阿弥陀仏がいるとか、何々如来、何々菩薩、何々神というような金ピカの神や仏が実在しているわけがないのである。

 

 とくにわれわれの生活は、肉体と精神のほかに、霊とか魂とか名づけるものがあって、現実の生活を支配したり、死後も天に昇って不滅であるという考えは、科学的に実証されないから誤りである。

 

 ゆえにこの意味では、われわれも無神論である。
 

 ところが世間にありふれた無神論者は「宗教とは何か」について何も知らないからだめなのだ。ゆえに、われわれが神や仏を否定するにもかかわらず、なぜ宗教が必要であると主張するかは、以下の各項目を追ってゆき、最後にどのような宗教が必要であるかについて述べる。

 ② 良心と信念
 神も仏も無いという人は結局、自分の良心とか信念で生きてゆけばよいという。

 あるいは自分以外のものは何も信じられないから、自分を信じて生きてゆけばよいといっている。

 

 ここで問題になるのは、良心とか信念とかいうものは、その内容が各人にまちまちであり、善の場合もあれば悪の場合もある。 

 

 もし人間がすべて善人であるならば、人々の信念どおりに活動しさえすればよいが、現実の社会はけっして善人ばかりではない。かえって悪人が充満している。
 個人の例をとってみても、あるときには悪意に満ち、あるときには善意に満ちて生活しているが、結局は悪意のほうが多いから、日本の現状に見られるような社会的な混乱がある。

 人間の性は善でもあり悪でもあって、悪のために少しばかりの善をなすのが凡夫であり、大善のために少しばかりの悪をなすのが仏ともいえるのである。


 良心というものも、幼年時代は父兄の教えによって培われ、学校では教師によって啓発され、成長しては社会の影響を受けているので、父兄の思想や家庭の環境もまちまちであり、学校の教師も人格が完成されているわけでなし、まして社会は道義が頽廃している今日の日本において、良心ほどあてにならないものはないといっても過言ではない。


 ゆえに人々がかってに良心や信念にしたがって行動しても、けっして幸福な社会は建設されるわけはないのである。

 

 まして人間は瞬間瞬間に怒り、泣き、笑い、貪り、あるいは朝起きてから夜寝るまで種々な生活をくり返しているが、その内でいかなる自分に頼り、いかなる状態の自分を信じてゆけばよいのであろうか。

 

 これに対してはっきりと解決を与えているのが、仏教の極理である「一念三千の法門」である。


 仏教によれば、あらゆる実在はすべて十界を具えており、十界はさらに十界を互具している。十界とは地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天上界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界のことであり、われわれ人間にはこの十界が本然に具わっている。

 

 すなわち、生まれてくるときには手足の不自由な者や肉体に欠陥をもって生まれる者はあっても、これらの十界は本有常住に具わっていて、けっして欠損することはないのである。
 この十界の性を本来、もっているからこそ、何かの縁にふれては喜んだり、怒ったり、学問したりするのであり、とくに一番問題があるのは「人界に仏界を具している」ことであるが、これも仏性をもっていればこそ、ある縁に値って仏界を現ずることができるのである。

 

 ここで「仏界とは何か」「仏界を現ずる縁となるものは何か」が一番大切な問題であるけれども、これについては別の機会にふれることにする。


 ところが世間一般の学問では十界も知らず、まして十界互具、百界千如、一念三千を知る由もない。たとえその名目だけを聞き知ったところで、日蓮大聖人は観心本尊抄
 「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり」(御書全集二四〇㌻)

 とおおせられているごとく、末法当今にいたっては、日蓮大聖人の文底下種事行の一念三千の大御本尊に向かわなくては一念三千を知ることができない。ということは、「自己の生命の実体」がわからないのである。

 ゆえに、自分を信ずるという人々は肝心の自分を知らないから、これも正しい宗教観とはいえないのである。

 ③ 心のよりどころ
 さてつぎに「心のよりどころとして精神的な満足をなしうるために宗教を求めたい」という人がある。このような人は正しい宗教の価値を知らない人々である。


 われわれの日常生活にはどんな精神的なよりどころがあるだろうか。自分の仕事にすべてを打ち込んであらゆる希望を仕事に託している人もあれば、趣味、娯楽として、読書、スポーツ、音楽等もあり、あるいはまた精神修養の講話を聞いたり、宗教や哲学の本を雑然と読んだりして自己のなぐさめや心のよりどころとしている。

 もし宗教がこのようななぐさめや心のよりどころとしかならないならば、そんなものをわれわれは宗教とは呼ばないのである。
 またこのような考えの人々が陥りやすい弊害は、宗教とは自己満足することであると考えている。

 

 これに対しては、幸福について若干説明しなければならない。幸福とは価値であり、美と利と善が幸福の内容である。ゆえに個人が美と利を獲得すれば、自己満足することができる。しかし、社会の利益が善であり、善が基本とならなくては、個人だけでけっして真の幸福はありえないのである。ゆえに、心のよりどころや精神的な満足のみしか与えられないような小さな宗教は、すなわち自己満足を与えるくらいの能力しかない宗教は、もはや宗教としての存在価値がないのである。なぜなら、趣味や娯楽と宗教の区別がなくなるではないか。

④ 道徳的な教え
 さてつぎに、道徳的なものが宗教であると考えている者がある。これも精神修養と宗教の区別がつかない点では前項と同じである。
 いま与えてこれを考えれば、道徳的な修養も小さな宗教であり、宗教の一小部分であるともいえる。すなわち親に孝行し、兄弟仲よく、夫婦相和し、よく働いて社会のために貢献しようというのは人間としての当然のつとめである。信仰の有無にかかわらず、人はだれでもこうすることが善いことであり、こうしなければならないことを知っている。


 しかしながら奪ってこれを考えれば、そのような道徳的修養は、けっして真の幸福を得る道ではない。
 

 その理由として第一に「腹を立ててはいけない。生き物を殺してはいけない。嘘をついてはいけない」などと教えたところで、けっしてそれは守られないし、そのような戒律をたくさん並べたてて、もしそのとおり実行したら、かえって社会生活は破壊され、亡国の原因とさえなる。


 第二に、五濁悪世といわれる末法の今日において、そのような小さな教法で、邪智、謗法の悪人を導くことは不可能である。人の物を盗んではいけないことはだれでも教えられて知っているが、この世に泥棒のたえることはない。どんなに善人顔をしていても、人間が本然にもっている泥棒根性というものは、消えるわけがない。大臣や代議士の破廉恥罪による刑務所行きも、仏法に照らしてみれば、十界が本有常住であるから、不思議でもないし、驚くほどのことでもないのである。


 第三には、精神修養のごとき小法・小善に安んじて、大法・大善に反対することは、かえって大悪人の行為である。孝行をしなければならないことはだれでも知っているが、どうすることが最大の親孝行であるかはだれも知らないのである。同じ孝行のなかにも小さな孝行もあれば、大きな孝行もあって、小さな孝行に安んじていることはかえって大不孝となることを深く考えなければならない。

 ⑤ 人間以上の対象
 あるいはまた、宗教とは人間が人間以上のある対象を神とか仏とか名づけて信仰していることであると考えている人がある。この考え方については「信仰の対象」が一番問題になる。


 いま余がある高徳の人を信頼して、その人に朝夕接してよくその意見を聞き、その人のいうことならすべてこれを信じて、その人の教えどおりに生活するならば、きっと余の生活はその人に感化され、ほとんど余の人格はその人の人格に近くなるであろう。あるいはまた、余がスリや強盗の親分を信じ崇拝しているならば、余はやはりスリ、強盗の世界で活躍するようになるであろう。
 

 ふつうの世間の交際においても「朱に交われば赤くなる」といわれているとおりであるが、まして宗教とは、朝夕に礼拝し、苦しいときにも楽しいときにも、たえず〝よりどころ〟としているのであり、強く信心すればするほど、その対象に影響され感応されるのである。


 いずれの宗教にせよ、その宗教が根本として尊敬しているものが「本尊」であり、その本尊は神とか仏とか適当に名づけているけれども、その本尊がいかなる力をもち、いかなる作用をもっているか、すなわちその本尊の実体を明らかにしなければ、これを信仰の対象にすることはばからしいことである。


 「人間以上の力」といっても、鳥は空を飛び、魚は水中に棲み、犬や馬は自分の歩いた道を忘れないし、小鳥は地上の餌を小さなくちばしでつついてはずれないことも、みな人間にまねのできないことである。

 さらに蛇とか狐などは、もっと奇怪なところがある。狐や蛇に「人間の頭で判断する以上の力」があるからといって、狐を本尊とし、蛇を本尊として、自分のいっさいの生活の根本の規準として信仰することによっては、けっして人間が人間以上の幸福を創造できるわけがない。ところが現実には、このような畜生のまねをする宗教がますますはんらんしてきているのである。


 あるいはまた「大自然の力」を称賛して、自然を信仰の対象にする者もある。これがまた、はなはだずるい考えに陥っている。なるほど偉大な大自然のなかに純粋に溶け入ることを願求するならば、その人のあくせくとした生活にはうるおいとなり、なぐさめとなるにはちがいないけれども、すぐ商売化して「御嶽さん」とか「戸隠さん」などといって職業宗教家がお札やお祈りを始めている。

 自然を信仰の対象にするもののなかで、自然が即神だとか、神が宇宙に遍満しているなどと説くものがあるが、これとても、神の実体が観念的であり、生活とはなんの関係もない観念に終わっている


 思うに原始時代の宗教ならば、自然や山岳や、天体などを信仰の対象にして、これに祈っていても不思議はなかったのであろうけれども、科学が長足の進歩をとげ、われわれの日常生活がいちいち科学的になってきているときに、宗教だけが昔と変わらない非科学的、非合理的な「わからないものをただ信ずるのが宗教である」といったところで、とうてい納得がゆかないであろう。

 

 このように立ちおくれている宗教は、早晩、自滅するよりほかないであろう。
 あるいはまた、古来偉人とか聖人とかいわれた人を信仰の対象にすることがある。

 聖人の教えをそのまま自分の生活の準則とすることは、一応宗教としての価値は認められるけれども、これを神社や寺院にまつって信仰することは、おおいに疑問がある。はたしてその聖人が神社や寺院に現在生きていて、昔どおりの作用と化導する力があるかどうか
 これはおそらく、仏教の真髄である法華経の一念三千によって、「生命の実体≒宇宙の実相」が究明されなければ解決できない問題である。ゆえに現在のわれわれとしては、まずその聖人偉人の「教え」そのものを深く検討しなければならない。この教えが非合理的であったり、または因果の法則を無視しているならば、これは宗教としての価値はまったくないのである。


 また戦時中は軍部や国家主義者によってさかんに唱えられたように、ある地方の開拓の恩人や民族の祖先などを信仰の対象にすることも道理のとおらないことである。

 このような偉人や恩人に対して感謝し報恩することは、人としての当然のつとめであっても、これに祈願し信仰することは、かえって誤りである。
 これは要するに「わからないもの」をすぐ神だ仏だといって信仰することが根本的な誤りであると結論する以外にないのである。

 ⑥ 墓場と宗教
 日本人の多くは仏教の各宗派に属していて、先祖伝来の墓を守り、盆や彼岸にはそこへ参詣して、僧侶に供物でもあげたり、墓の掃除をすることなどが宗教であると考えている者が多い。

 

 これに対しては、現代の腐敗した寺院の僧侶達は喜ぶにちがいないが、これでは釈尊の真意はまったく没却されてしまったのである。もしこれが宗教であるならば、釈迦は「死体の取り扱い方」とか「経の唱え方」だけを教えておけばよかったのであり、十二因縁、六波羅蜜、三種の教相などという哲学や修行は、まったく必要がなかったのである。


 われわれはみな幸福を求めて生活している。ゆえにわれわれが真に幸福になり、平和で幸福な社会を建設するために根本的な原理となり規準となるものが宗教でなくてはならない。すなわち葬式とか法事などの形式は宗教ではないのである。人間の生活がすなわち宗教ではないが、宗教とは生活そのもののなかに存在しなければならないはずである。

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 さて、以上の所論が承認されるならば、「宗教は何でも同じである」という考えは重大な誤謬である。信心とか信仰という信ずる心は同じであっても、生活に現れるべき結果は、幸か不幸か、まったくの逆となる。


 宗教を認識の対象として考えているときには、道徳的な低い教えでも、父母や年長者を尊敬せよというていどの教えでも、朝は早く起きて正直によく働けというような教えであっても、それは一分の真理である。
 しかし、生活上に起きてくる問題は、そのような一様平等の事件のみではない。あるときには一時的なわがままから夫婦兄弟がけんかをしているような場合なら、問題は簡単である。食べ過ぎて腹を痛めたり、寒いときにちょっと風邪をひいたくらいなら、それほど人生の無情を嘆くことはない。しかし一家が路頭に迷ったり、生か死かという生命に関する問題になると、小法小力の教えではもはや役に立たなくなってくる。


 あたかも甲地から乙地へ行くのに、歩いて行くのと、自転車で行くのと、自動車、汽車、飛行機等その方法はいくらもあるが、遠隔地であれば飛行機がもっとも早くて便利である。歩いて行くのは大変なことであり、平安時代や鎌倉時代に京都を出発して関東や東北方面へ行くには、われわれには想像もできない不便と困難がともなったであろう。

 たとえ自転車ででもあれば助かるし、どんなガタガタの自動車ででもあれば歩くよりは便利である。しかしいちど特急列車や飛行機で東京大阪間を旅行した者には、自転車やガタガタ自動車では不便で遅くてお話にならない。これらはすべて乗り物であり、一分一分の徳はあるが、さて実際に自分が旅行するとなれば、このように相違がある。


 宗教の分野にあっても、これとまったく同様であり、その教える内容によって、戒律などは一部分の人にしか必要でないものである。あるいは万人に共通の問題を論じているとしても、一時的な気休めにすぎないものであったり、あるいは一時の小利益を得て、一身一家を滅亡せしめるような宗教もある


 このようにして、価値は主観と対象との関係性であるがゆえに、主観の状態とともに、対象のいかんによって正価値ともなり、反価値ともなる。
 いくら自分が正直に人と交際していても、善人との交際にあっては、信用され幸福を感ずるであろうが、相手が悪人であり詐欺漢であっては、自分の正直の徳もだいなしである。前例のごとき乗り物では、いまだ直接に生命への影響は少ないとしても、また詐欺から与えられる被害は、財産上の影響にかぎられているとしても、宗教となれば、生活の根本をなす法であり、生きてゆく規準であるがゆえに、その影響もまた深刻である。
 ゆえに宗教の価値判定こそ、もっとも重大であり、緊急を要する問題なのである。

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 仏教といえば、現代のいわゆる知識人からは迷信としてしりぞけられているが、この仏教に説くところは、真理観と価値観とを明確に区別して、法の浅深・勝劣を立て分けている。

 五重の相対、四重の興廃、三重秘伝等の法門においても、評価の世界において、初めてそのご真意を領解すべきである。

 

 次に引く御文は、その一例である。
 御義口伝に、
 「無上宝聚不求自得の事  御義口伝に云く無上に重重の子細あり、外道の法に対すれば三蔵教は無上・外道の法は有上なり又三蔵経は有上・通教は無上・通教は有上・別教は無上・別教は有上・円教は無上、又爾前の円は有上・法華の円は無上・又迹門の円は有上・本門の円は無上、又迹門十三品は有上・方便品は無上・又本門十三品は有上・一品二半は無上、又天台大師所弘の止観は無上・玄文二部は有上なり、今日蓮等の類いの心は無上とは南無妙法蓮華経・無上の中の極無上なり、此の妙法を指して無上宝聚と説き給うなり」(御書全集七二七㌻)とある。


 右のわずかな御文中に、釈迦五十年の説法および日蓮大聖人三十年の弘法における勝劣・浅深がきわめて明らかである。すなわち、宝と見るときは真理観であり、すべての法門が宝である。その宝と人間生活との関係性 ー すなわち価値となれば、有上無上の差が生ずる。
 外道の法に対すれば仏法中もっとも初歩である三蔵教がはるかに勝れて無上の宝であるが、仏法中にあってもまた各種各様の法門があり、しだいに浅きを捨てて深きを取り、劣を捨てて勝を取るときに、日蓮大聖人が御建立の三大秘法の南無妙法蓮華経こそ、無上中の極無上なりとおおせである。
「信は価の如く解は宝の如し」(御書全集七二五㌻)と、この文をよく拝すべきである。