三、人格価値の創造

        (1)

 人間が社会生活を営むにあたり、その人が所属する社会に対して積極的か消極的かのある関係をもっているのを称して、人格価値という。

 すなわちその人が所属する社会に、いてもよいがいなくてもよいという場合は、いわゆる可もなし不可もなしという平凡な存在で、ことによると一朝有事の際には、いることがかえってじゃまになり、その社会の進取的活動を阻害するような存在である。

 

 平常時においては、このような平凡な人と.真に実力のある非凡な人の区別はつかないが、一朝有事の場合に各人が全力を尽くさなければならないようなとき、初めて人格価値の優劣高下があらわれるものである。大なる国家社会においてはもちろん、市町村でも、学校でも、家庭でも、その集団生活をしている人々は、すべて左の三階級に区別される。

 

 一、いることを一般から希望される人。泰平無事のときにはそれほど問題にされなくても、

  一朝有事の場合に「もし彼がおったならば」と追慕される人で、つねに社会の結合的勢力として存在する人。
 二、彼がいても悪くはないが、いなくてもたいした影響はないという人。いわばほとんど仲
  間から存在を認められていない平凡の人。
 三、彼あるがために困っているという人。はなはだしいのは、公然と社会から嫌忌されてい
  るところの罪悪人で、つねに社会を脅威するもの、すなわち社会の結合に対して分解的役
  割をなす者。
 

 このように人格ということばのなかには、人間の評価が含まれている。某は人格が高いとか低いとかいうのは、すなわち価値の高下を表している。


 さてしからば、その人格価値はいかにして判定されるか。それは自覚と他覚である。

 

 ソクラテスは「汝自身を知れ」と説いて、まず自分が自分の能力と価値を知るべきであるとした。

 他覚とは他人の自己に対する評価であり、いわゆる評判である。しかして正当の人格価値はこの自覚と他覚の両方を取捨選択し、比較総合して判断するものである。


 しかしまた、自覚にも他覚にも、過大と過小の見誤りがある。認識においてのみならず、その表現にも誤りが多い。自惚、謙遜、追従、嫉妬等の感情が付随して、正当の判断を失するのである。古来、歴史家が古今東西の史上の人物を判定するのに、善人となすか、悪人となすか議論ほまちまちであるように、現代においてもまた正確な判断は困難である。


 一般的にいえば、自覚にも他覚にもまずその評価主体に偶発的に付随した要素を捨象し、必然的なる本質をのみ捕捉して、純客観的・普遍的なる状態において公平に評価しなければならない。

         (2)

 人格の高大を評価する中核をなすものは、その人の理想にえがくところの目的観念の相違である。この中心をなす目的観に左の三階級がある。


 一、個人の生存を最高の目的と考え、これを中心としていっさいの行動をなす者。
 二、個人生活以上になお大なる生活体があって、個人はその一部であり一要素であり、個人
  の生活はこの大なる生活体の状態につねに支配されるものであるという見解をもっていっ
  さいの行動をなす者。
 三、右の中段階にあって、個人は意識するが社会という団体をたとえ明瞭でないにせよこれ
  を認めている者と、しからずして、たんなる自己以外には相手をなす個人だけはこれを認
  めるけれども、その結合体たる社会は意識することができない者の二種がある。
 

 以上の三段階に区別することができる。さらにこれを反問して別の表現をもってすれば、いっそう明らかになるであろう。
 

 一、たんなる自己主義の人生観 ー 社会を自己の生存の手段とみる人。
 二、個人は社会の要素である ー 全体観のできる人。
 三、社会を意識してはいるが、正当に認識することなく、自己が万能であり、社会はその意
  志に従属すると考える人。社会と自分を不対等にみる人。


 右のうち第三がもっとも多い。さらにこれを分類すれば次のようになる。
 

   (a) 社会を自己と対等の勢力や価値にみる人、もしくはその価値について明確な考えのない人。
   (b) 社会を明らかに自己以上の勢力あるものとし、これに対する敬虔の念をもってする人。
  
 右の(b)項においても、その限界に次のような差異がある。


      (1) 会社や地方的団体等に制限される人。
      (2) 党派的団体に制限される人。
      (3) 国家に制限されてそれ以上におよばない人。
      (4) 国家以上の国際間におよぶ人。
      (5) 国家の観念のない世界的という空虚の観念に陥っている人。

         (3)

 世には偉大なる人格の感化を予想して、人格教育を叱呼する者が多い。社会はもちろんこれを渇仰してやまない。その精神はまことに結構である。しかし結構すぎて実際の生活には不可能な空論である。なぜなら。そのような人格者は何百年か何千年かに一人しか出現しないからである。


 まして仏教の上に予言されている末法の時代とは今である。末法に生まれている人間は愚かで嘘つきで、欲ばりで腹を立ててけんかばかりしているというのが予言であり、まさにそのとおり自分自身をかえりみても、また周囲の人を見ても、国内国外の情勢を見ても、まったくこの予言に一分の狂いもない。

 

 このような時代に何を標準として人格を決定するか。

 

 まずその人格の内容が疑問である。生まれてから一度も嘘をいわないと確信をもって断言する人間があるか、あるといえばそれこそ第一の嘘つきである。


 ゆえにこのような時代においては、学校教育においても、指導主義 ー 指導法が確立されなければならない。自分自身が現在なんの不安も悩みもないという必要はない。自分は悩みもあり不幸でもあるが「どうすれば無上最大の幸福に到達することができるかという手段方法を知っている」人であるならば、その道へ入らしめ、その道をまっすぐに進むよう指導すればよいのである。これこそもっとも実際に適した教育法である。