二、価値判定の規準
(1)
われわれが日常生活においてあるいは成功し、あるいは失敗し、あるいは歓喜にもえ、あるいは悲嘆のどん底にくれなければならないのは、すべては生活上の問題に対する価値判断が正当であったかどうかによる結果である。
それゆえに価値判定の規準となる生活指導の基本的な原則が確立されることは、もっとも必要なことである。本書の最初から述べてきた諸原則を基にして、さらに生活体験から価値判定を思考するならば、次のような結果になる。
① 美醜
好き嫌いにとらわれて、利害を忘れるのは愚かである。いわんや善悪を忘れるをや。
損を好み得を嫌う人間はないはずであるが、一時的な感情でものごとを判断するため、せっかくの利益を逃がして大損害をまねくのがこれである。幼児の食物の食べ過ぎだとか、一生の大切なる結婚を好き嫌いできめて後悔する等の愚かさはだれでも気がつくが、日常生活にはこの種のことがじつに多い。無理とは知りながら負けることが嫌いのあまり、わがままを通そうとしたり、生活の根本問題たる宗教を好きだ、嫌いだ、先祖伝来などといって我見を捨てようとせず、一身一家の利益も、国家社会の善をもかえりみようとしないのは、このたぐいである。
「良薬は口に苦し」のたとえは、この点を教えているのであり、一身の利益のためには口に苦いのも忍ぶべきであり、まして善のためにはいうまでもないことである。
② 利害
目前の小利害に迷って遠大の大利害を忘れるのは愚かである。
甘言に乗せられて詐欺にかかり、病気がなおる、金がもうかると誘われてインチキ宗教に深入りしてゆくのが、目前の小利に迷って遠大の大利を忘れ、大害をまねくものである。また、悪いとは知りながら悪の世界から抜けきるための小害をおそれて、ますます悪に悪を重ねてゆく臆病者もこの愚者である。
③ 善悪
損得にとらわれて善悪を無視するのは悪である。
好き嫌いの一時的、刹那的であるのに対して、利害損得は永久的であるごとく、利害の個人的なるに比べれば、善悪は社会的、全体的であるゆえに、一身一家の利益に目がくらみ社会国家の公益を害するを悪人という。黄金万能の守銭奴や闇成金もこれによってできあがる。国法には背反しないからといって、自己の名誉や地位にのみこだわって、本来の使命を忘れている代議士や官僚も、じつは悪人なのである。衆生の救済を目的として起こった宗教が、その能力を失っているのにもかかわらず、既成宗教として社会に根を張り、一宗一派の繁栄生存のために宗教の看板をかかげているがごときも、悪人の代表的なものである。
社会を無視した個人の安全や幸福が成り立つはずはないから悪人とよぶのである。
④ 不善悪
不善は悪であり、不悪は善である。いずれもその最小限ではあるが結果はこうなる。
不善を善と考えて悪とは異うと思い、法律にふれさえしなければ不善でもかまわないと誤解しているところに、現代の病根があり、独善偽善者が横行している結果となっている。悪をするのと善をしないのとは、同一の結果を別言したにすぎない。しかるに悪をするのは悪いにきまっているが、善をしないのは悪でないから善と思って平気でいるのが、現代の常識といってよい。
かりに余が君から千円搾取したとする。君の友人はそれを知っていながら、余の行為を阻止もしなければ、君に注意もしなかったとする。そうすれば君からの怨みは両人とも共同に受けなければならない。結果としては、悪をした余も、善をしない友人も同じ悪であり、しかも君の危機を知っていて忠告しないのは、かえって悪が重いといえよう。
つぎに友人を抜きにして余と君との直接交渉としよう。君の生命力がきわめて強盛であるなら、悪人に搾取されるようなすきがない。しからば搾取した余の悪いのはいうまでもないが、善をせずに搾取される君もよくない。自分が直接千円の損害を受けるのみか、他人をして悪行をさせるからである。そしてそれは結局のところ生命力の弱さに基づくのである。かくのごとく、強い悪人も罰を受けるが、弱い善人もまた罰を受けて、直接生活上の損害を受けるのみならず、これによって精神的苦痛を受け、さらに昂じては、病気になったり破産したりする。
このように社会における弊害の各一半は、強者たる悪人とともに、弱者たる善人も不善の罪を免れない。はたしてしからば、悪行の罪だけはだれでも教えるが、不善の罪を問わないのは理由のないことであり、根本的な社会悪の解決策とはならないのである。
⑤ 大善悪
小善に安んじて大善に背けば大悪となり、小悪でも大悪に反対すれば大善となる。
大悪に反抗するはもとより困難であるが、大善に背かず、すすんでこれを尊敬することはさらに至難である。ゆえに最大善の出現にあたって、それ以下の中小善がことごとく大悪に陥ることは、価値観においてのみうなずかれるところである。
たとえば君が闇夜に燈火が欲しいとき、余は電燈と提灯をたくさん持っているのに、君には提灯を与えたとする。君は不便な思いをしながらも提灯を持って用事をすませたのち、さらに余がもっと便利な電燈を持っていて、しかもこれを隠していたことを知ったならば、君は提灯を借りた思いよりもかえって私を怨むであろう。すなわち、電燈のないときや消えたときに提灯は役に立つのであって、電燈の出現した後の提灯はかえって「不便だ」「暗い」という感情が先に立つ。善の価値においてもまったく同じであって、小善は大善の出現する以前には役に立つが、大善の出現したときこれにしたがわなかったり、あるいは怨嫉(おんしつ)をいだいたりするなら、小善がかえって大悪と変ずるのである。
大善を嫉(ねた)み、衆愚にほめられることを喜び、大悪に反対する勇気もなく、大善に親しむ雅量もないところに、小善たるの特質がある。悪を好まないだけの良心はあるが、善をなすだけの気力がないのである。
善が大善に反対するとかえって大悪となることは、生活とかけ離れた観念論では容易に理解できないであろうが、実際の生活においては無意識のうちに承認しているところである。他人ならば行き合って挨拶をしなくても普通であるが、親近の兄弟姉妹が何かの事情で挨拶もせずつんとして顔をそむけたなら、路上で会う人々よりもはるかに疎遠となり、仇敵になったほどの憎しみを感ぜざるをえないのが人情である。この意味において、師子身中の虫として、団体外の強敵よりは仲間のなかから裏切られることが、親近者ほどかえって致命傷となることも説明しうるところである。
以上のごとく述べきたるところは、余の新発見にあらず、かつまた独創にあらず、われわれは無意識のうちにこの法則に準拠して生活してきているのであり、さらに末法の本仏日蓮大聖人は、次のごとく明らかにこの点を御指摘あそばされているのである。
「小善を持て大善を打ち奉り権経を以て実経を失ふとがは小善還って大悪となる薬変じて毒となる親族還って怨敵と成るが如し難治の次第なり」(下山御消息 御書全集三四四㌻)
「設ひ善を作人も一の善に十の悪を造り重ねて結句は小善につけて大悪を造り心には大善を修したりと云ふ慢心を起す世となれり」(月水御書 御書全集一一九九㌻)
「弥陀念仏の小善をもって法華経の大善を失う・小善の念仏は大悪の五逆にすぎたり」(千日尼御前御返事 御書全集一三一二㌻)
「例せば父母を殺す人は何なる大善根をなせども天・是を受け給う事なし、又法華経のかたきとなる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還って大善根となり候」(治部房御返事 御書全集一四二六㌻)
「善は但善と思ふほどに小善に付いて大悪の起る事をしらず……これらをもってしるべし善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし」(南条兵衛七郎殿御書 御書全集一四九五㌻)
⑥ 極善悪
同じ小悪でも地位の上がるにしたがってしだいに大悪となる。いわんや大悪においてをや、極悪となりその報いとして大罰を受けねばならない。善はその反対である。
社会の地位が上がるにしたがって、善悪ともに果報の程度が上昇する。この法則は対岸の火事をながめているような第三者的な立場では気がつかないが、その火が隣家へ延焼してきた場合の態度になれば、明らかに感覚することができる。
その日暮らしの貧しい家庭から、あるいは金品を盗んだり、あるいは直接、間接に良民を迫害したとする。同じ罪でも市民と巡査と警察署長と知事と大臣とでは、社会に対する影響力が異なり、したがってその罪報も異なる。同じ理由によって地位は低くても善を教えるべき教師には罪報が重い。そのゆえは青少年を相手とするがゆえに、苗代において害毒を流す結果となるからである。
はたしてしからば、これらのさらに上流に立って害毒を流す僧侶・神官等の罪悪は、さらに重大である。たとえば小悪でも最大悪となり、極悪の果報を結ぶ。いわんや大善に反対して大悪に加担し、大悪に迎合して大善を怨嫉するにいたっては、極重罪の果報を受くべきことは必然である。この法則は、悪人よりは善人、善人よりは大善人として社会の尊崇をほしいままにして高位高官に位する高徳・先覚の深く警(いまし)め厚く慎むべきことである。顔回(がんかい)がもし孔子に反対したとすれば、亜聖(あせい)がただちに大悪人に陥(おちい)るのであり、この孔子がもしも釈尊に反対したとすれば、ただちに極悪の果報を結ばねばなるまい。さればこそ「孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図(ふと)という者あり此聖人(これしようにん)なりといゐて外典(げてん)を仏法の初門となせしこれなり」(御書全集一八七㌻)と日蓮大聖人が開目抄におおせられているのがそれである。
これをもってみると、一般の善人、大善人と自任している人々の油断のならないことは、いつ自分以上の人格者 ― 大善人が出現しないともかぎらないし、また現在以上の良法が立証されないともかぎらないことである。この場合には、地位が高ければ高いほど、大悪・最大悪の果報を結ばねばならないことが、価値論においてこそ理解しうるところであろう。
おもうに、潔(いさぎよ)く大悪に反対して死地に飛び込むよりは、快く大善を讃嘆して、その徳を伝承することが、いっそう至難ではあるまいか。
想うてここにいたれば、現在のごとき恐怖(くふ)悪世の相を現出し、釈尊の三千年前の御予言たる「末法濁悪」の世が現実に証明されるのは、強盗殺人等の大悪よりも、左右両翼の社会的大悪よりも、高官高位に蟠位(ばんい)して、賢善有徳の相をしていながら、大善を怨嫉(おんしつ)し軽蔑(けいべつ)して大悪に迎合し、加勢し、もってその地位の擁護と現状の維持とに力を尽くす高僧、大徳、智者、学匠によるといわねばなるまい。
「仏法によって悪道に堕つる者は大地微塵の数、仏法によって成仏する者は爪上の土」の仏誡(ぶつかい)がこれによって初めて理解されるのである。
かくのごとき価値論的考察は、経文、論釈や学説、真理などを商品のごとく受け売りしてその地位を守り、衣食の糧とする大学教授や、職業宗教家などの容易にできないところであろう。どこまでも対岸の火災視して、その身もろとも社会の全体と共同の利害を有することを感じない偏見に安んずるからである。
子供に背かれた親ほどさびしいものはない。もっとも親近している相手が千里の疎遠になるからである。これが肉身を分けたのでない他人ならば、目に見えさえしなければ忘れることができ、その間はなんらの苦痛はないのであるが、骨肉を分けたものになる以上そうはいかぬ。
いかに肉体は遠く別れているにしても、精神の関係はきれるものではない。遠ざかれば遠ざかるほど心配になるのが親心である。子は親を忘れることはできても、親は子を忘れることはできない。親不孝が大善に背くだけ大悪となるゆえんである。
⑦ 空善悪
利害損得を無視した善悪は空虚であり、いうべくして行われないものである。
個人の利害損得すなわち生存権を無視して、ただ、国家のため社会のためと呼びかけるのは、足の地につかない空虚な善悪である。
自己の生命を滅して公益に奉仕することは、きわめて特定の瞬間にのみ行われるべきことであって、この非常道徳を平常の生活に強行しようとしても無理である。戦時中の「滅私奉公」のごときは、平常の生活に私欲を滅すことさえできないのに、まして生命を滅せるわけがない。真に滅私奉公が要求されるのは、人生に唯一最高の目的観が確立されたうえで、その目的に殉ずるのでなくては意味がない。犬死にという以外にないのである。
国家のために、社会のために尽くせば、すべての人が幸福になるという原理は、一応成り立つとしても、国家社会の幸福ということは、すなわち一身一家も幸福になるということであり、個人を無視した社会の幸福はありえない。ゆえに社会が絶対に幸福になれる方法があるとするならば、その方法によって個人がまず幸福になれるのでなくてはならない。同様に、一家という社会にも、一会社という社会にも、国家という社会にも、いな、人類社会すべてが幸福になれるという方法が、唯一絶対の最高の法であるといえるのである。
⑧ 真偽
真偽は実在を意味し、価値は人生との関係を意味する。ゆえに真理は幸福の要素ではない。
真理は実在を如実に表現したものであり、価値は対象と人生との関係性を意味する。このコップに水が入っているというのは、それが事実であれば真理であり。事実でなければ虚偽である。価値はその水を飲んだり、あるいは飲みたくないといってきらう状態である。ゆえに幸福というものは、客観的にながめているのではなくて、実際の行動のなかに存在する。
仏教においては、真理観と価値観とを明らかに区別している。ゆえに日蓮大聖人は御義口伝に「信は価(あたい)の如く解(げ)は宝の如し……信の外に解無く解の外に信無し」(御書全集七二五㌻)とおおせられている。信は価値観で、対象との関係性を意味し、解とは真理観であって、知恵を意味する。ただし仏教の信解とは、さらに広く深い内容があり、これをもって、ただちに現代哲学の真理と価値に等しいということはできない。いまはただ主観視・客観視の区別に引用したのみである。また次のような御文は、価値観においてのみいえることである。
「日出でぬれば星隠れ巧(たくみ)を見て拙(つたなき)を知る」(下山御消息 御書全集三六〇㌻)
「迹門(しやくもん)の大教起れば爾前の大教亡じ・本門の大教起れば迹門爾前亡じ・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず此れは是れ如来所説の聖教・従浅至深して次第に迷を転ずるなり」(十法界事御書全集四二〇㌻)
⑨ 正邪
正邪は善悪とまったく内容が違う。悪人の仲間では悪が正で善が邪であり、曲がった根性の人には正直がかえって邪悪として嫌われる。
右に例示したような少数異常の精神状態の人間には、正邪の判定はまちまちであっても、大多数の正常者は、すべての人の好むところの美と利と善とを正として好み、嫌うところの醜と害と悪とを邪として憎む。
アリストテレス(aristoteles)は善悪を正邪によって規定しようとしたが、それは逆である。
人間の認識性情に反している。すなわち公益が善であって、通常の社会においては善が正で、悪が邪である。泥棒の社会では盗むことが正であり、これに反するものは邪となる。
しかしその各の正中においては、大が正であり小が邪であり、邪中においてはその反対である。この場合の大小は、実在の分量を意味するのではなくて、生命と対象との関係の程度を意味するのであり、すなわち価値の大小によって正邪が決定される。
同じ意味で、美よりは利、利よりは善がそれぞれ大なるがゆえ、大は小に対して正、小は大に対して邪である。醜と害と悪とにおいては、この反対である。かくのごとく生活との関係、価値の大小を比較対照して判定するとき、ついには最大の一善のみが正となり、以下の大小ことごとくが邪となる。たんに邪となるのみならず、それらのすべてが最大の悪となって、人間のもっとも嫌うところとなることは、最大善に対照されるからである。
かくて最大の一善に反対し、怨嫉する大小無数階級の善人がことごとく最大の一悪に墜落することは、知識階級にはかえって異論があろうとも、人間本有の性情に基づき、すでに日常生活のうちに、いかなる国民も、いかなる階級でも、無意識のうちに肯定し、承認し、服従して生活しているところである。
⑩ 半狂人格
以上のような簡単な道理がわからない者は狂であり、わかってしたがわない者は怯である。
何をもって半狂人格というか。一方で肯定しておきながら、他方では否定して平気でいる者は、人格に統一を欠くがゆえである。すなわち、以上に示した価値判定の規準のごときは、すべて生活体験のうえから帰納される簡単な道理であるから、これを説明されたときに、冷静に考えるならば、だれでも納得のできることである。
しかし道理として納得しておきながら、実際の生活となればまったく別にする。好き嫌いにとらわれて利害を忘れてはいけないという道理はわかっても、口に苦い良薬を拒み、耳に逆らう忠言をすなおに聞き入れようとしない。これを称して半狂人格者というのである。
(2)
われわれの生活は、価値観が確立するときに安定し、これに迷うときには不安定となる。社会に基盤をおく善の価値を土台として、その上に個人的価値たる利と美とをもつ生活は、図示すると第一図のようになる。しかるに自分の好き嫌いを土台にしてものごとを判断し、一世一代の利益を無視するのみか、善などはほとんど考慮に入れていない生活は、第二図のごとき不安定なものとなる。
すなわち第一図は、善の大価値を土台におくから安定し、第二図は、美の小価値を土台におくからきわめて不安定となるのである。
つぎに自分の好き嫌いのみ主張して利善を無視する生活は、第三図であり、自分の利益ばかり考えていて芸術等の感情を無視し、善をも無視するいわゆる利己主義、黄金万能主義は、第四図である。
善悪を強調するあまり、個人の生活をまったく無視する空善悪は第五図であり、正常な美・利・善の幸福生活は第六図である。