生活指導原理としての価値論〔注〕

 

〔注〕この論文は、牧口常三郎著、戸田城聖補訂の「価値論」に収められたものです。
当初、「価値諭」は、初代会長牧口常三郎先生の「創価教育学体系」の第二巻として昭和六年三月に発刊されましたが、さらに第二代会長戸田城聖先生によって牧口先生の十回忌を期して全面的に補訂され、昭和二十八年十一月に刊行されました。その第六章が、この「生活指導原理としての価値論」であり、これは牧口先生の所説を踏まえたうえでの、戸田先生の書きおろしに近い内容であるため、本全集に収録しました。


一、目的観の確立
        (1)
 現代の社会における最大の弊害は、目的観の不確立にある。人間は何のために生きているか、いな、自分は何のために生きているか。

 日常生活においても自分の行き先がわかっているならば、交番へ行って道順を聞くのもよい。しかし自分自身の行き先がわからないで、「どこへ行ったらよいか」などと聞いたなら、笑い草ではないか。

 

 しかるに人生行路においては、だれ一人目的なしに生きているのは不思議でもあり、奇怪でもある。社会生活の混乱と低迷の根源は、じつにここに根ざしているのである。


 なるほど人々はそれぞれの目的をもっているにはちがいない。あるいは月給をもらうために、あるいは子供を育てるために、あるいは商売繁盛のために、あるいは学校を卒業するために生きている人がある。しかし月給をもらったらどうするか、子供を育てたらどうするか、商売が繁盛したらどうするか、学校を卒業したらどうするかとなったなら、行き先はまったく闇である。

 

 それゆえにこれらの目的はすべて手段である。より高き目的からみれば、中小の目的はすべて手段となる。たとえば大阪へ行くために東京駅へ行く、東京駅へ行くためにタクシーを探す、タクシーに乗れば一応目的は達したが、これは大阪へ行くための手段である。


 さらに一歩深く社会の現状を見、かつ自分自身の生活を反省するならば、われわれの人生はじつに迷闇そのものである。

 

 表面的には政治家とか実業家とか会社員とか飾り立てられているが、その内心においては、女房とのけんかに明け暮れて瞋怒の泥沼にあえいでいる者、あるいは金が欲しい、時間が欲しいと貪欲の火焔につつまれている者、あるいは目前の小利益に迷い、目的観の確立しないため愚癡の生活に一生を終わってゆく者等々、じつに仏の予言のごとき三毒強盛の世の中である。

 

 これはまったく他人のことではない。自分自身の生活が、自慢と疑いと、貪りと瞋りと、愚癡と怨嫉以外のなにものでもないのである。


 そこでわれわれは、政治も経済も教育も文化もすべてを統一した最高唯一の目的はないか、と探し求めなければならない。

 

 しかもその目的が、観念や「来世の天国」というがごとき空論でなく、現実の生活を固く規律する最高の目的が提示され、しかも実践によって一歩一歩生活の上に実証されるならば、これこそ万人の希求するところであるといわねばならない。


 もしその目的が確立されないで、現状のごとく各様の小利小善に安んじているならば、あいかわらずの暗中模索を続け、しかも個人個人の生活はつぎつぎと破局に陥って、新聞の三面記事をにぎわす凄惨な事件を惹起し、しかも社会的には敗戦、亡国、生活苦等となって現れてくるのである。


         (2)
 

 余は第一章の序論(三五三㌻の〔注〕参照)において述べたごとく、人生の目的は幸福の追求にあると断定する。

 

 しかして幸福の内容となり要素となるものは価値である。されば価値には小利益、大利益のあるがごとく、また大善、中善、小善のあるがごとく、幸福にも無数の段階序列がある。ゆえに、価値を最大限に創造獲得した生活が、人生の最高の目的である


 そのためにはまず価値の内容を明らかにしなければならない。すなわち真理は価値ではないのである。

 真理と価値の概念の区別、認識作用と評価作用の心理的区別をまず明確にする必要がある。

 

 ついで価値の内容となるものは利・善・美であることを知り、しかも価値の本来の性格からして小中の価値を捨てて大価値を取り、美利の個人的価値よりは社会を基盤とし、評価主体とする善の価値を核心としていく大善生活こそ、人生最大の目的であり、至幸至福への道であると信ずる
 

 ここにいたって、もう一度価値の概念を考えてみるに、価値は主観と客観世界の関係している状態である。対象となる客観世界の探究は自然科学等の範囲であって、この方面における研究は驚くべき長足の進歩をきたしている。ラジオ、電気、汽車、飛行機等による文化生活は、古代人の想像もおよばなかったところであろう。
 

 しかし一方の主観世界たる生命の探究はいっこうにすすんでいない。現代一流の物理学者、生物学者、医学者、哲学者の四人が「生命とは何か」について対談した小冊子がアテネ文庫より出版されている。もとより第一流の大学者がこのような小冊子で意を尽くしてしまうことはありえないことではあるが、ここにそれぞれ専門の立場から論じられていることは、あるいは生命を客観世界の物質と肩をならべて論じたり、あるいは哲学の上から論じてみても、きわめて限られた生命論であり、現実の大衆の不幸を救済するには道遠しの感が深い。今後、幾十年か幾百年かの後に何か発明発見されたなら、あるいは生命の本質を説き明かして衆生救済の根本原理となるかもしれないが、少なくとも現実には、根本原理として能力も働きもいっこうに見当たらないのである。


 驚くべき事実は、三千年の昔に釈尊はすでに生命の本質、生命の実体を残りなく説き示しており、しかも七百年以前に日蓮大聖人は実践の方式を打ちたてられているのである。

 

 しかしながらインチキ宗教、偽似宗教に禍いされて、世人はその深奥なる哲学と幸福生活の実践にふれる機会がないことは、残念のきわみである。


 美の価値も利の価値も、われわれの生命力が弱体ならば、いかほどの価値も生じえない。いわんや善の行為すなわち社会に貢献するなどとは考える余地もないのである。ゆえに生命論の立場から別項に述べるごとく、生命の実体、生命の本質を追究してゆくことが、さらに重要なことであり、これこそ真実の宗教の分野である。