小野君の死を悼む

 小野君、きみの死を聞いて、ぼくはひじょうにおどろいた。わが学会は、ぼくが会長就任以来、大幹部の死は一人もみない。また青年部において、いかなる意味においても部隊長級の死は、いまだこれをみない、ましてや、その死が横死においてをやである。

 きみは電車事故の横死と聞く。大御本尊様に奉仕する身として、一時は、ただおどろくのみであった。
 

 それ、生命について、これを論ずれば、三世の宿命を基礎としなければならぬ。生命を持続するために必要な条件は、肉体と精神である。肉体の健康維持と病気は、医者の診断を考慮のうえ、精神の健康と病弱は師匠の指示にもとづく。

 

 医者と師匠の善悪は、肉体と精神に大きな影響をもつことは、いうまでもない。しかし、そのひとつをもって全体と考えあやまり、または、それ自体が生命それ自体と考えることは、大きな人生の誤謬である。

 

 生死の問題は医者でもなければ師匠でもない。三世の宿命に基因した事実である。


 その三世の宿命について、健康とか、智慧とか、家庭不和とか、金とかという問題は、わりあいにかんたんに解決ができることを、釈迦も天台も妙楽も説いているが、生命の転換、発展については、釈迦、天台、日蓮大聖人の深く悩ませられたところである。

 

 釈迦は釈迦の立場において、天台は天台の流儀において、大聖人は大聖人のお位において、いずれも解決はしてあ
る。これには深い思索と強い信仰とが必要であることを、先哲は強く主張せられている。


 日蓮大聖人は弘安二年十月十二日、出世の本懐たる大曼荼羅を根本として、生命問題を解決しておられる。もし、われら信徒が、これに随順するならば。かならずや大聖人のおおせのごとき結論をえられるのである。


 しからば、きみの横死はいかん。


 佐渡御書に、般泥洹経を引いていわく、
 「善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ……」、またいわく「及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」(御書全集九五九㌻)


 この御文によれば、きみの横死も軽く受けたるの部類に属するか。かく論ずれば、死というものを解決しえぬがゆえに、詭弁を用いるというかもしれぬが、それは三世の生命観をしらず、仏法のなにものをかも解しえぬやからの妄言である。


 これを注して、またまた兄弟抄に大聖人のたまわく、
 「涅槃経に云く『横に死殃に羅り訶嘖・罵辱・鞭杖・閉繋・飢餓・困苦・是くの如き等の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず』等云云、般泥洹経に云く……文の心は我等過去に正法を行じける者に・あだをなして・ありけるが今かへりて信受すれば過去に人を障る罪にて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳・強盛なれば未来の大苦をまねぎこして少苦に値うなり、この経文に過去の誹謗によりて・やうやうの果報をうくるなかに或は貧家に生れ或は邪見の家に生れ或は王難に値う等云云、この中に邪見の家と申すは誹謗正法の家なり王難等と申すは悪王に生れあうなり、此二つの大難は各各の身に当ってをぼへつべし、過去の謗法の罪を滅せんとて邪見の父母にせめられさせ給う、又法華経の行者をあだむ国主にあへり経文明明たり経文赫赫たり、我身は過去に謗法の者なりける事疑い給うことなかれ、此れを疑って現世の軽苦忍びがたくて慈父のせめに随いて存外に法華経をすつるよし・あるならば我身地獄に堕つるのみならず悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕ちて・ともにかなしまん事疑いなかるべし、大道心と申すはこれなり」(御書全集一〇八二㌻)


 この大聖人の御心を拝するのに、きみの横死は現世の少苦、軽苦である。少しも悩まず、いたまずして死に、しかも大地獄に堕ちずして成仏の相をいたす。悲母、慈父をみちびき、妻には少時にもせよ、生活の苦を救う。また死後は、大御本尊のもとにありて、次の生命活動の強き根源を与えらる。喜びとするか、悲しみとするか。その人々によるともせよ、ぼくはきみのために喜びとするものである。
 

 願わくは小野君、いまや広宣流布の途上にある。一日も早く、この地上に返り咲き、われら同志と手をにぎって、大聖人の御遺命を達成しようではないか。
 若々しき青年として、きみを見る日も遠からじと思う。すみやかに学会のもとへかえりたまえ。同志はきみの帰りきたらんことを待望している。
             (昭和三十三年二月四日)