年頭のことば

 人生には、希望がなくてはならない。いや、あらゆる人が希望のなかに生きているのではなかろうか。もし希望のない人生に生きている人がいるとすれば、それは敗残者である。


 若人の希望は、老人のそれと比して大きく、また明るいものである。それがまた、若人の特権ともいえるであろう。明るい大きな希望をもった若人も、年をとるにつれて、だんだんと小さく、だんだんと実際的になり、最後にしぼんだ花のような希望になるというのが、現実の状態である。


 希望が大きく、希望が明るい、その希望が達成できないものだという通念から、よく、この希望は「夢をもつ」ということばでいいあらわされている。この夢がだんだんしぼんでくるのは、人生の実際問題がこの夢を打ちくだいていくためである。
 

 過去の偉人をみるのに、人生の苦難、人生の怒濤にも負けずに、凡人よりみれば夢としか思えぬ希望を守りつづけてきているのである。いな、その希望に生ききって、けっして屈しないのである。


 その理由は、希望それじたいが、自己の欲望や利己的なものでなくて、人類の幸福ということが基本的なものになっており、それがひじょうな確信に満ちていたからではなかろうか。


 われらが御本仏日蓮大聖人は、御年十六歳にして人類救済の大願に目覚められ、かつまた宇宙の哲理をお悟りあそばされて以来、三十二の御年まで、その信念の確証を研鑚あそばされて後、御年六十一歳の御涅槃の日まで、若きときの希望、若きときの夢の一つも離すことなく、生活に打ちたてられたことは、じつにすさまじい大殿堂を見るがごときものではないか。


 新年の初頭にあたって、吾人が同志にのぞむものは、老いたるにもせよ、若きにもせよ、生活に確信ある希望をもち、その希望のなかに生きぬいてもらわなければならないことである。


 いうまでもなく、その希望に生きぬく生命力は、御本仏日蓮大聖人の御生命である人法一箇の御本尊にあることを銘記すべきであろう。
 

 おのれも大地に足を踏みしめ、はなやかな希望に生きるとともに、世の人たちをも同じく大地に足を踏みしめさせて、人生に晴れやかな希望をもたせようではないか。
                    (昭和三十二年一月一日)