仏法で民衆を救済

 昨冬、ハンガリア問題が世界の注目を引いた。そのくわしい事情については知るよしもない。ソ連政治のやりかたが正しいものやら、ハンガリア政府のやりかたが正しいものやら、吾人にはわからないが、ただ、国民が悲痛な境遇にあることだけは察せられる。貧乏と困苦の生活上に加えられたものは鉄火の見舞いである。悲しむべき民衆ではなかろうか。

 

 われらは、この苦しみを想像しうる位置にある。なぜかならば、十数年以前に同じ事情にあったからである。これを根本的に救えるものは政治であろうか、権力であろうか。


 おもうに、これは民族と民族の生活闘争の一表現であろうが、国家と国家、民族と民族が争うべきが必然のすがたであり、当然のことであると考えて、この現実のすがたを、そのまま認めるのが正しい考え方であろうか。


 このようなあり方に、いたずらに憤激を感ずるのは、女性の一時的ヒステリーのようなもので、なんら益のないことである。とはいえ、こういう悲惨な社会事情に憤激を感じないとするならば、これまた、あまりにも無関心な態度ではないかと思う。


 ハンガリアの民衆にたいして、吾人らはなんの救うべき手段も方法もない。ただ、一日も早く、地上からかかる悲惨事のないような世界をつくりたいと念願するだけである。


 民主主義にもせよ、共産主義にもせよ、相争うために考えられたものではないと吾人は断言する。しかるに、この二つの思想が、地球において、政治に、経済に、相争うものをつくりつつあることは、悲しむべき事実である。
 

 ここに、釈迦の存在とキリストの存在とマホメッ卜の存在とを考えてみるとき、またこれ、相争うべきものではないはずである。もし、これらの聖者が一堂に会するとすれば、またその会見に、マルクスも、あるいはリカードもともに加わったとするならば、いや、カントも天台大師も加わって大会議を開いたとすれば、けっしてこんなまちがった協議をしないであろう。


 ただ、われらあわれな者たちは、大先輩の意見を正しく受け入れられないために、利己心と嫉妬と、怒りにかられつつ、大衆をまちがわせているのではなかろうか。

 

 吾人らが仏法哲学を弘めて、真実の平和、民衆の救済を叫ぶゆえんは、先哲の平和欲求の精神をどこまでも実現せんがためである。


 願わくは、吾人と志を同じくする同志は、世界にも、国家にも、個人にも、「悲惨」という文字が使われないようにありたいものと考えて、望み多き年頭をむかえようではないか。
                        (昭和三十二年一月一日)