聖人御難事御書を拝して

 ―「去ぬる建長五年」より「其の間の大難は各各かつしろしめせり」(御書全集一一八九㌻)の文。


 この御文のうち、天照太神の御くりやが、東条の郷において今は第一なりとのおおせは、政治の実権が関東一門に移って、京都にはその実力がなくなったゆえに、鎌倉をもって「王」とみなされたとも拝されるのである。御書に、「小国の王」「小王」とかとおしたためあられるが、みな鎌倉の執権をさしているのであって、けっして京都の天皇をさしているのではないことを、記憶しなくてはならない。


 この東条の郷・清澄山において、四月二十八日、初めてこの法門をお説きあそばされた意義については、北尾日大氏の所見が正しいと思うから、左にこれを記録しておく。


  (北尾日大氏論)
 宗祖が開宗の地を特に房州清澄寺に選定せられし所以を考察するに、一には誕生の地、二には父母の国、三には天照大神垂迹の霊地として日本第一の国、四には父母道善房等の師親及び浄顕義浄等の先輩同人を教化せんが為、五には智慧を賜りし虚空蔵菩薩の恩を報ぜんが為、六には故山修学の地なるが為等であらう。御書に二三の証を求むれば、
 善無畏三蔵抄
「此の諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生・本師道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり何に況や人倫をや、此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す」(御書全集八八八㌻)
 

 新尼御前御返事
 「安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照太神・跡を垂れ給へり」(御書全集九〇六㌻)

 清澄寺大衆中
 「虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す」(御書全集八九四㌻)
 

 本書
 「安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり」(御書全集一一八九㌻) ― 等である。
           〔日蓮聖人遺文全集講義第二十三巻(北尾日大氏担当九〇㌻より〕


 出世の御本懐とは、その人の生まれてきた根本目的を果たしたことであって、「仏は四十余年」とは、いうまでもなく、法華経寿量品を説かれたことであって、もし、この寿量品がなかったならば、釈迦一代の仏法は支離滅裂であって、かれの説法は無意味なものとなるのである。


 また、「天台大師は三十余年」とは摩訶止観を説かれたことであって、この摩訶止観に理の一念三千を説いたればこそ、小釈迦とも呼ばれ、薬王の再誕ともいいきることができる。ゆえに、天台は摩訶止観を説かれるために生まれてきたといえるのである。


 次に「伝教大師は二十余年」とは、理の戒壇、すなわち、迹門の戒壇を叡山に建立し、六宗をしてことごとく天台に帰伏せしめた。この大乗の戒壇は、東洋始まってより初めてのことであって、三国一のものである。これこそ、伝教が僧侶となって仏に大功を立てたもので、出世の本懐これにすぐるものはないであろう。


 わが宗祖、「余は二十七年なり」とおおせあそばされて、立宗以来二十七年にして、弘安二年に出世の御本懐をおとげあそばされたとおおせられておられるが、いったい何を御建立あそばして、また何をお説きあそばして、出世の本懐とおおせられるのであろうか。


 思うに、顕仏未来記に「三に一を加えて三国四師と号く」(御書全集五〇九㌻)と、佐渡ご在住のときですら、かくおおせられている以上は、三師に肩をならべ、または、これにすぐれたる極説を、お建てあそばされたにちがいない。しかし、世の一般史家には、なにものもうつってはいないのではないか。


 こう考えてくると、世の人は、なぜこれを不思議に思わないのであろうか。邪宗のやからがこの御書を読みきれないのは、この点にある。「余は二十七年なり」と。

 

 さて、いかなる説が説かれ、いかなるものが建立されたかと、不思議がってこそ、この御書を読む資格があるのである。忠実に大聖人の教えをうけるならば、まず、この不思議を解かねばならぬ。

 この不思議は、すなわち、一閻浮提総与の大御本尊の出現である。この御本尊には「本門戒壇也」と、はっきりおしたためあそばされている。この御本尊こそ、戒壇の御本尊であること明らかである。


 三大秘法禀承事にいわく、
 「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」(御書全集一〇二二㌻)と。


 かくのごとくおおせられている。このりっぱなる戒壇に建立される大御本尊の出現こそ、大聖人の出世の本懐なのである。しかも、この御書は弘安二年の十月の御書である。大御本尊の御建立は弘安二年十月十二日である。あたかも符節を合わせたごときではないか。


 長谷川義一氏は「この御書は、たんに大聖人の御難事をおしたためになられたもので、たいした意義はない」といっている。なんとおどろくべき浅見ではないか。しかし、これが邪宗一般の考え方である。なぜかならば、什門流の学者といわれ、また、いまは延山の僧正であるこの人が、この御書を読みきれないのは、不相伝のゆえと、大御本尊を拝しえない邪見のゆえであり、真に悲しむべきことである。


「法華経に云く『而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや』」より「仏説すでに大虚妄となりぬ」の文。

 

 「如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」の「況や滅度の後をや」は、次のように読むべきである
 「況や滅度の後正法に於てをや」「況や滅度の後像法に於てをや」「況や滅度の後末法に於てをや」である。
 

 この章においては、まず釈迦在世の如来の難をお説きになられて、これを小難となさっていられ、末法御本仏の境地よりすれば、理の当然である。色相荘厳・脱益の仏のうける難は末法下種の仏の難に比すれば、当然、小難となる。


 像法時の天台・伝教が法華経の行者なりというといえども、その本地をたずねれば、両者とも薬王菩薩にして迹化の菩薩であり、付嘱もまた迹化の付嘱である。難ありといえども、仏にすぎるわけはない。ましてや、末法弘通の大導師にくらべれば、もののかずではないのはあたりまえなのである。

 

「而るに日蓮二十七年が間」より「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」の文。


 この章においては、大聖人は御自身のうける大難を示され、これを結んでいうのには、「仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし」と。

 これ言外に、仏にすぐれたる大難なりと、いわれているのである。


 すなわち、次下の「日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり」とおおせられて、「況や滅度の後をや」の経文を読める者は、われ一人なりとして、法華経の行者であることを強く述べられておられるのである。


 ゆえに、次下に結んでいうのには「仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」と。

 すなわち、仏の予言どおり、末法の法華経の行者として御自身がおあらわれになったことを、強くおっしゃられているのである。


 正法にもせよ、像法にもせよ、末法にもせよ、法華経の行者を軽賤する者は、法華経の罰をこうむることを断定せられ、大聖人を迫害するものは、かならず梵天、帝釈、法華経守護の諸天善神に、せめられるであろうとなされて、現罰をこうむった大田親昌、長崎次郎兵衛尉時綱、大進房等の現証を示されたのである。


 また罰には、総罰・別罰・顕罰・冥罰の四種ありとし、これをその時の世相に引きくらべて、法華経の罰を説かれている。つらつら、この四種の罰を現在の世相に引きくらべるのに、不思議にも一致している感がある。


 いまの社会の貧乏生活は、これ飢饉といいうるであろう。他国侵逼難は眼前にあり、肺病、狂人などの多いことは、これ疫病という罰にあたるではないか。また、健康保険の金が足りなくて、とやかく問題を起こしているなどは、じつに寒々とした感じがする。現罰にいたっては、諸君らのつねにみるところであろう。正法まさに滅せんとしたとき、わが創価学会の同志は、大聖人の仏勅を奉じて立ったのである。されば、この世相も大法興隆の瑞兆か。


 また「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり」とは、われら創価学会の折伏は、師子の吼うるのである。邪宗のやからのおどろき、恐れおののくのは、当然のことである。この師子王の子たる確信なくして、日蓮大聖人の門下とは絶対にいいえないのである。この確信こそ、いかにも荘厳にして、勇壮なものではないか。


 また「設い大鬼神のつける人なりとも日蓮をば梵釈・日月・四天等・天照太神・八幡の守護し給うゆへにばっしがたかるべしと存じ給うべし」と。これ梵天・帝釈・日天・月天等の守りたもうとは、同じくわれら大聖人の門下にも通ずることであって、三大秘法の南無妙法蓮華経の功徳である。


 強盛な信心のうえに立って、この絶大なる確信あるならば、いかなる乱世に住もうとも、悠悠とした生活が営まれることであろう。よくよく、このことば、心肝に染むべきである。
 

「我等凡夫のつたなさは」より「後の薬なればいたくていたからず」の文。


 この章は、法難にたいする心構えをお説きくださっている。われわれ凡夫は、難のないときは「難がきてもおどろくものか」と、強気をいうものである。しかるに、いざ実際の難に出あうと、うろたえさわぐのが常である。大聖人のように、信心に徹底した御心からみれば、じつにはがゆいことであろう。つねづねは大言壮語するといえども、ひとたび難があらわれるならば、その人の信心のほどがうかがい知れるのである。よくよく、つねづねより、怯懦心を捨てて、勇猛心を奮い立てねばならぬ。


 よくあることではあるが、初信の者が新聞紙上等で学会の悪口誹謗の書かれている文を読み、退転する者がある。少し信心をした者にははがゆいと思うが、これと同じように、少し信心をしたような者でも、小難は乗りきりながら、より大きな難がくればひるむ者も出る。強信の者よりみれば、はがゆいことであることはいうまでもない。この心理が、この章の御聖意である。


「彼のあつわらの愚癡の者ども」より「ぬれるうるしに水をかけそらをきりたるやうに候ぞ」の文。


 熱原の法難に座した人々への励ましのことばでもあり、仏の慈悲のあらわれでもある。その慈悲は、厳父の慈悲であって、悲母の愛ではない

 出征するわが子にたいし、「死んで帰れ」という父親のことばに、一脈通ずるものがあるではないか。
 

 「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」とは、涙をのんでおしたための御筆ではないか。熱原の法難をうけた大衆よりも、大聖人の御心のうちこそと、思いはがられるものがある。現在の世に、広宣流布の途上において、もしこのようなことがあったとしたら、そのときに、「悪いのがあたりまえで、よくなることは不思議なのである」というたならば、いかにも無慈悲な者と非難されるであろう。
 しかし、そう励ますよりほかに道のないときは、いわれるものよりは、いうほうがどんなにつらい立場であろうか。大聖人のお胸のうちを思えば、この御抄を拝して、胸をかきむしられる思いがする。


「三位房が事は大不思議の事ども候いしかども」より「此れへかきつけて・たび候へ」までの文。


 この章は、大聖人に逆いたるものについての御聖意をあらわしたものである。「なかなか・さんざんと・だにも申せしかば・たすかるへんもや候いなん」とおおせられているのは、さんざんと強く本人にいいきかしたならば、助かることもあったであろうというおことばである。


 深く味わうべきことばではないか。大聖人のときも、学会今日の化儀の広宣流布のときも、同じ悩みが指導者のなかにはあるものである。
                         (昭和三十一年五月一日)