聖教新聞創刊五周年に際して

 聖教新聞発行せられてまさに五年、その間、広布のために役立った功績は多大なものである。思うに、われらが日蓮大聖人の門下として、しかも、その正統たる富士大石寺の信徒たる以上は、広宣流布のために不自惜身命の覚悟がなければならぬ。


 七百年来、夢のようにいいならされてきた広宣流布実現の時は、いままさに、そのときである。火難、水難、飢饉の難、自界叛逆難、他国侵逼の難は眼前である。この国難は、なにを意味するのであろうか。加うるに主権は天皇を去って民衆に移っている。これ、大地震にも匹敵し、大彗星のあらわれたるにも似ているではないか。
 

 顕仏未来記にいわく、
「而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘って大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」(御書全集五〇八㌻)


 大聖人他国侵逼難を予言せられて七百年に近い。それが眼前にあらわれたのである。このときこそ、広宣流布の時と思わずにおられるであろうか。
 われら、生を人の世にうけ、あいがたき正法に帰依し、しかも広宣流布のときにめぐりあったのである。
 大聖人にお目通りもできず、御開山日興上人に師事もいたさず、第三世日目上人のお供もできなかったことは、仏縁少なしと一往は嘆くけれども、再往考えれば、化儀の広宣流布の実現を双肩に担ったことは、このうえもないよろこびとしなければならない。富木殿にもすぎ、四条金吾殿にもまさった仏縁であると、喜悦このうえもない思いがある。


 この広布の大業には上行菩薩様も無辺行菩薩様も、はたまた浄行、安立行菩薩様も心勇んでご出現のことと思うと、いかばかりか気強いことである。
 この菩薩方を旗頭として、その使命完遂のために聖教新聞は働くのである。じつに名誉ある新聞とほめたたえてさしつかえない。願わくは、一日も早く、日本じゅうの人に、この新聞を読ませたいものである。

(昭和三十一年四月二十二日)

 

私見

今の聖教新聞は表面上のことで喜ばすような、衆愚に導く洗脳新聞になってしまった。読む価値はない。

聖教新聞社員は、戸田先生に触れるべきである。