佐渡御書を拝して

 この御抄を拝して、深く胸打たれるものは、大聖人御自身のお命もあやうく、かつはご生活も逼迫しているときにもかかわらず、弟子らをわが子のごとく慈しむ愛情が、ひしひしとあらわれていることである。春の海に毅然たる大岩が海中にそびえ立ち、その巌のもとに、陽光をおびた小波があまえている風景にも似ているような感がある。いま、文々について、深く感じたところを書いてみょうと思う。


 ―「此文は富木殿のかた」等の文。
「京鎌倉に軍に死る人人を書付てたび候へ」とあるは、いくさで死んだ門弟をあわれみ、これに成仏の祈念をしてやろうとのおぼしめしであろう。わずかの手紙の端にも、ご慈悲が感ぜられる。


 ―「世間に人の恐るる者は」より「仏になる人もなかるべし」の文。
 この御文を拝するのに、仏法のために身命をも捨てて供養せよと、命がけの信心をすすめておいであそばす。ご真意は、命がけの信心こそ必要なりとの御心である。だれしも生きとし生ける者は、みなことごとく命を惜しむが、その命をも仏法のためには惜しんではならぬ。命を惜しまぬほどの者が財宝など惜しむわけはない。また、財宝を惜しむ者がどうして不自惜身命の信心などできるものかとのおおせである。


 ふりかえって、現代のわれわれが命を惜しまないというてみても、なかなかできるわざではない。しかし、幸いなるかな、専制政治、封建制度下でないために、命に別条なく信心できるのである。されば、せめても身命を養う金銭ぐらいは、命のかわりとして、仏法のために惜しまない心がけはありたいものだ。また世間体の名誉などは問題とするところなく、確固たる自信のもとに信仰をすすめてこそ、現代では不自惜身命の信心といえるであろう。


 ―「仏法は摂受・折伏時によるべし」より「時機に相違すれば叶う可らず」の文。
 仏法には時ということを、よくよく考えねばならぬとして、経文および前例を引いて、よくよくさとされたうえに、大聖人が時にかなう仏法を行じていることを示されている。


 すなわち御文に、
 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し」


 とおおせられているのが、それである。また、悪王とは北条一族のことである。おもしろいことには、このたびの太平洋戦争中に、悪王とか小王とかいうようなことばが御書のなかにあるのを、時の軍部にへつらう一部の者が、これは日蓮が天皇をさしていっているのであるとなして、日蓮大聖人を不忠者扱いにしたが、笑止千万のいたりである。


 正法を破るとは、南無妙法蓮華経の正法を破ることであり、邪法の僧等とは、道隆、良観等がたぐいのことで、智者とは、大聖人が御事である。ゆえに、「例せば日蓮が如し」とおおせられている。
 また「これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべし」云云とおおせられているのは、正法を惜しむ心が強盛であるから、師子王のごとき心になるのであって、けっして虚勢や名誉のためではない。もしわれらも、本尊流布にあたって、小さな自己の欲望や、あるいは虚勢をはっているものであるならば、三類の強敵にあっては修羅のおごり、帝釈にせめられて、無熱池の蓮のなかに小身となりて隠れしがごとしと同じすがたとなるであろう。


 さて、この御文によって、今日の時勢をみるのに、南無妙法蓮華経の題目は全国に弘まっているが、いぜんとして、人生に幸福をみることができない。国は他国に攻められて、経済界は他国に領属し、民衆は塗炭の苦しみをなめている。これ、いかなる理由によるものか、南無妙法蓮華経に功徳がないのか、大聖人は虚妄罪の人か。
 いないな、南無妙法蓮華経とは一大秘法で、これを開いては三大秘法となる。三大秘法合してまた一大秘法となる。一大秘法とは、本門の本尊であり、この本門の本尊をひらけば、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇となる。また、この本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇を合すれば、一大秘法たる本門の本尊となる。


 しかるに、いま日本中の人々は、ただ題目のみを知って、その根源たる本門の本尊を知らないゆえに、邪宗教が乱立して、おのおの勝手の本尊をつくって、いずれが正、いずれが邪とも決しかねる状態である。このときにあたって、御聖意たる本門の本尊を世に知らしめて、邪義の本尊を覆滅する者こそ、当御文の「正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし」にあたるのである。


 また「千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず」とは、現代の真の御本尊を知らずして、ただただ、仏教を研究し、または御書を講義し、また日蓮宗学を論じているやからにあたるのである。つつしむべし、つつしむべし。


 ―「宝治の合戦すでに二十六年」より「『悪鬼入其身』とは是なり」の文。
 この御文は自界叛逆難のよってきたるゆえんを、よくよく説かれている。
 「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし」と。すなわち、仏弟子等が仏法を破るとは、日蓮大聖人の御一門以外の僧等をさしておられるので、この悪僧等が仏法を破るとは、正法正師の大聖人を排撃して時機にかなわぬ爾前経に執着しているのをさされており、これ自界叛逆難のゆえんであると、強く主張なされている。


 「日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し」とおおせあるは、大聖人すでに御本仏たるご確信があってのことで、次下の文の「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべし」の文と照合すれば明らかである。すなわち「棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり」とは、みな、仏のお位をさしたものである。


 かかる、明らかな御文があるにもかかわらず、身延派はじめ邪義邪宗のやからは、大聖人を仏とみず、大菩薩とか三宝のなかの僧宝にたてているということは、じつに誤りもはなはだしいものである。


 またかさねていうが、大聖人が悪王とか小王とかおおせられているのは、けっして天皇をさしているのではなくて、鎌倉をさしているということは、この「関東の御一門」とおおせられているのではっきりするであろう。
 

 「実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん」とは、死後において、この世の謗法の業を感ずる苦しさを述べられているのであって、現代人が現世のみを考えて、死後の生命を考えないのとは、大きな相違がある。


 「世間の愚者の思に云く」というおことばは、すこぶる痛快なおことばである。大聖人は王難にあうことは、まえまえからすでにご承知のことである。さすれば、予定の行動ともいってさしつかえない。それを「日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉」などという者は、これ仏を知らぬ者であり、法華経を解しないものである。


 じつに、大聖人の御目よりしたならば、こんなことをいう者は大バカ者にみえたであろう。
救ってやろうというものを島流しにして、しかも、これを嘲哢するにいたっては、大聖人の御目よりすれば、じつにあわれむべしと思われたことであろう。されば、次の御文に「日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢の如し然を流罪し主従共に悦びぬるあはれに無慚なる者なり」とおおせられている。


 しこうして、前文において「父母を打子あり阿闍世王なり仏阿羅漢を殺し血を出す者あり提婆達多是なり六臣これをほめ瞿伽利等これを悦ぶ」とおおせられているが、御文の阿闍世王と提婆達多は、この御一門にあたり、大聖人の流罪をよろこぶ一般民衆は六臣、瞿伽利等にあたるとの御心、この御文において明々白々である。


 また、「既に一門を亡す大鬼の此国に入なるべし法華経に云く『悪鬼入其身』と是なり」と。


 この御文を拝するとき、太平洋戦争のときが思い出される。正法すでに国内に尽き、正宗の僧侶ありといえども、一身一家を思うて一国を思わず、民衆だれ一人として、御本仏日蓮大聖人をあおがず、また一閻浮提総与の御本尊を求めようともせず、わずか二、三千の忠国の士たる創価学会員は投獄された。これまことに悪鬼この国に入るの状態ではないか。わが国のほろびるのは理の当然である。この御文、まことに恐るべし、恐るべし。

 


 ―「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず」より「後生の三悪を脱れんずるなるべし」の文。
 この御文は、末法の仏は凡夫相であり、凡夫相たる理由は、謗法の者のみ住む世の中であるから、逆縁を表として折伏しなければならぬ。その根本原理を示されているのである。されば、まず御自身を語り、次下に一般の世相を説かれているのである。

 

 御本仏御自身の凡夫相たることを説かれて、「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり」とおおせられている。しかし、たんなる凡夫相ではないことは、この御文章のなかに脈々とあらわれている。


 すなわち、「濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし」とて、金を御心にたとえ、また、「心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず」と説かれているのが、それである。また、大聖人「愚者のあなづる道理なり」とおおせられているところは、末法が逆縁を表とするをあらわしている。次に、御自身が千劫に謗法をなしたと、明らかにおおせになっているのは、日本国中、謗法の者のなかに生まれてきて、その謗法を責めて、救わんがためである。これも凡夫相のおすがたの一面か。

 


 ―「般泥洹経に云く、当来の世仮りに」云云より「日本国の一切衆生となれるなり」の文。
 この御文はさきにいうたとおり。日本国中謗法の者であることを断ぜられた文である。この御文のなかの般泥洹経をひかれた御心はおもしろいではないか。大聖人当時の念仏、禅宗のやからは、六師が末流の仏教のなかに出来したと断ぜられるならば、また吾人も、いまの仏立宗、身延派、霊友会、立正交成会のやからは、良観・道隆等の末流が大聖人の仏法のなかに出来したのであろうと断ずる。これ、まことにおもしろし、おもしろし。
 

 

 ―「日蓮も過去の種子」より「無慚とも申す計りなし」の文。
 この御文は自己の謗法を悔いなば、おおいに折伏をなすべき由の御文と拝せられる。されば大聖人御自身も「日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者子中無一等と笑しなり」とおおせられて。わが謗法を悔いられている。
 ゆえに、次下の文の「今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし」とは、これである。


 また「鳥の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし」とは、仏法の道理である。この御文よりすれば、現代の人々、敗戦の国に生まれ、あらゆる苦難を受けるのは、先業のゆえと知るべきであるが、しかりといえども、先業のゆえと、あきらめるわけにもいくまい


 このゆえに大聖人は、このわれら衆生の苦悩を救わんがために、大御本尊を建立あそばされたのである。この大慈大悲を知るならば、ただちに日本民衆は本仏大聖人に、帰仰したてまつるべきである。


 また「今の人は謗法を顕して扶けんとすれば我身に謗法なき由をあながちに陳答して」とは、ただ、大聖人の時のみでなく、現代の人々も、こんな苦しい世の中に生まれてきたのは、先業の謗法のゆえであるのに、だれ一人、わが身に謗法ありなどとは思っていない。そのゆえに、なかなか日蓮正宗の折伏には伏しないのであろう。

 

 今日のわれわれの折伏の心境よりすれば、大聖人当時の日蓮大聖人門下の心がよくおしはがれる。
 

 

 ―「いよいよ日蓮が先生今生先日の謗法おそろし」より「三五の塵点をやおくらんずらん」の文
  「種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」とは、われわれが、過去世において種々の業因をつくっている。されば、信仰したからとて、ただちにこれが消えるものではない。
 そのゆえに折伏を行ずるのである折伏を行ずるということは、法を守ることであって、この護法の功徳力によって、過去世の悪業の報いを軽く現世に受けるのである。消すことのできないという理由は、次の御文に「高山に登る者は必ず下り」とあるによるのである。ただ軽く受けるのが功徳である。


 また般泥洹経の「①我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん②形状端厳をそしれば醜陋の報いを得③④⑤人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる⑥持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず⑦正法の家をそしれば邪見の家に生ず⑧善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ」との八句は、われわれの日常生活に照らして、なかなかおもしろいではないか。


 大聖人のおおせによれば、この八句のうち、数多く受くるは、謗法の罪によるとせられている。ゆえに次下の文に「此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり」とおおせられている。


 この難おこるとも、大御本尊を信じて、強く折伏を行ずるならば、かならずや今生において大果報を受けるはいうまでもない。この確信は、大聖人の次の御文にして明らかである。
 すなわち、
 「日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におついかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき又彼諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや」

 


 ―「これはさてをきぬ」より「わらふなるべし」の文
 「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし」とおおせられるのは、一応は信じても、後には大聖人に背き、しかも大聖人に教訓するごとき者は、念仏宗よりもなおなお重き罪を受けるであろうと、おおせられているのである。退転する者よ、おおいに心すべきである。


 次のおことばは、解釈するよりは、ただ、われら大聖人を信じ、御本尊を受持する者は、常の口ずさみにしてよかろう。初代の会長牧口先生は、いつもこのおことばを口ずさんで、大笑いしたものであった。


「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり鳥鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし」


    (昭和三十一年四月一日)