民衆帰依の広布へ

 広宣流布は、大聖人以来、わが宗門の待望である。しこうして、その待望の秋は近いと吾人は信ずるのである。


 この待望の広宣流布にたいする、今日までのわが宗門の思想としては、天皇帰依である。天皇一人が帰依することが広宣流布とされてきた。これは天皇が帰依するなら、人民も当然に帰依するという、人民を私有物視した独裁政治の残滓的思想である。


 少なくとも主権在君の立憲政体においてすら通用しない考えかたではないか。天皇の主張が政党に命令的になるはずがないのは万人の承認するところである。ましてや、主権在民の今日の日本においては、天皇の帰依は、けっして広宣流布を意味しない。民衆全体の帰依でなくては広宣流布というわけにはいかない。せめて民衆の過半数の帰依を絶対に必要とする。


 次に、立憲政体下の天皇帰依の広宣流布と、今日のごとき日本の状態における民衆帰依の広宣流布と、いずれがやさしく、いずれがむずかしいという問題が起こってくる。一応からするならば、一般の人が天皇に帰依させて、下におよぼすほうがやさしいように考えるであろうが、それは吾人にいわしむれば、むしろむずかしい問題である。長年の間、念仏宗に関係深き皇室においては、まず皇室全体の賛意がなければ、天皇はどうすることもできないのであるから不可能に近い。皇室全体を折伏したらよいであろうが、折伏する方は平民であり、折伏される方が皇族であっては、どうにもならないことである。皇族とて頭のいい者ばかりいるわけではないから、なおさらめんどうといわなければならない。


 しからば、今日の日本の状態で、広宣流布はやさしいというのか、しかりである。ただし、やさしいという意味は、戦争以前の日本の状態において広宣流布するよりは、やさしいという意味である。しかし、広宣流布ということは、もともと一世の大事業であって、凡夫のなしうべきことではないことは、だれ人も知るところである。ただ仏意にすがる以外にないことはいうまでもない。

 

 しこうして、いま日本は、大聖人以後いまだかつて実現しなかった七難のうちの他国侵逼難が起こった。ゆえに民衆はあらゆる点において、苦難の生活におちいった。政治も文化も、これを救うによしなき状態である。
 

 物価騰貴に悩む貧困の人、医者で治すことができない業病に悩む人、そのほか、あらゆる人生の苦悩を救いうる方法があったとしたら、いまの民衆はどんなに喜び、それをまたおおいに渇仰するであろう。この要請にこたえるは、日蓮大聖人のご慈悲による弘安二年十月十二日の一閣浮提総与の大御本尊より以外には、何物もないのである。もしこのことが、一般大衆に理解されるならば、万人が喜んでこの御本尊に帰依するのは当然のことである。

 ゆえにこの理に基づいて、今日、日本における民衆帰依による広宣流布がやさしいというのである。


 この理由をもって、吾人は本尊流布をさけび、わが創価学会は全力をあげてこれに闘争しているのである。ゆえに、われらの行動は、一には大御本尊にこたえたてまつって広宣流布の大道を歩み、二には苦悩の民衆救済の菩薩行をなすものである。


 新しき新年をむかうるにあたって、われらは、この感激にもえて地涌の菩薩の行をしようではないか。
                          (昭和二十九年一月一日)