御書発願のことば

 七百年慶祝の事業として、御本山においても十大部発刊の計画あるを漏れうけたまわって、しかも予算は三十五万円であると聞いたときに、自分は、また邪宗身延にやられると感じたのである。それは、身延の御書発行のくわだてが三年前からあって、種々に研究の歩が進められているのを知っているからであった。


 日蓮大聖人の正統たる御本山が、たとえ宗団が小なりとはいえども、邪宗身延に御書の発刊を越されて、しかし、かれらのことであるから、かならず真の御遺文は作りえないのは十分知っているが、また、その誤りの書を手にして、大聖人の御真意を学ばねばならぬかと思ってひじょうに残念であった。


 しかし、御書の出版には、莫大の費用と、多数の人手と、多くの時日とを要するので、一大事業たることはいうまでもない。御本山において、数回試みられながら、なしえなかったことは、これによるのである。しかし、深く考えるほど、正宗編纂の御遺文集がほしくてたまらない。そこで柏原、和泉夫人両理事に、「どうだ、やるか」と聞いてみた。返事がない。そして考えた後に、言うのには、「先生がやるとおっしゃるなら、やれるでしょうし、先生がやるとおっしゃらなければできないでしょう」。同じく幹部諸君にも相談してみたが、返事も、また同じであった。そこで、私は断固としてやると決意をした。


 この断固たる私の決意にたいして、会員諸氏の誠意は涙ぐましいものがあった。一生、私の忘るることのできない誠意であることを、ここに深く感謝するものである。

 

 さて会員一同の決意が定まるや、私は畑毛に参上し、堀日亨上人猊下に、いっさいを一任して編纂方のお願いを申しあげたところ、こころよくご承知くだされて、会員一同をして歓喜し奮起せしめたのである。


 大御本尊のご慈悲は、私ども会員一同の頭上に雨とそそがれて、御遺文編纂の三大難関たる長年月の編纂と多数の人手と資金の問題が、ごくかんたんに解決されたのは、御仏意というより以外の何ものもない。長年月の編纂という難関は、堀日亨上人猊下の六十有余年のご研究がものをいって、蚕が糸をはくように、堀上人猊下のご脳裏から、すらすらと、半年間に御遺文があらわれ出たのである。じつに驚異的ともいうべきものであった。


 多数の人手という問題は、多年にわたる教学部員の訓練が生きて、下書きに、校正に、なんの支障もなく、じつにみごとな効果をあらわしたのであった。その十九人の教学部員が夜を徹し、職をなげうって校正にあたったすがたは、永遠に私の脳裏から去らないであろうし、また、深くも感謝しているところである。また、学会の花として霊鷲山会まで誇りうるものであると信じている。


 資金の面にいたっては、幹部諸氏の涙ぐましい誠意によって、私を安心させて、十分に出版能力をあらわさせてくれたことは、学会なればこそと、幹部諸君および会員諸君一同に深く感謝をささげているのである。二十年有余の出版業の経験が、この御書一冊を作るために、過去になされたのであったということを痛感したときに、ただただ自分の生きてきた道を不思議に思うのである。
                            (昭和二十七年六月三十日)