七百年の意義
顕仏未来記にいわく、
「答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや、疑って云く何を以て汝之を知る、答えて云く月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(御書全集五〇八㌻)
またいわく、
「遵式の云く『始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し』」(同㌻)
またいわく、
「仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(御書全集五〇八㌻)
とおおせの御心を拝するに、大聖人様の仏法は、東洋の仏法であり、東洋民衆を真に幸福へとみちびく最高の法である。しかして、この仏法は日本に出現するのであるから、インド出現の仏法とはちがうのである。
考うるに、釈迦は正法、像法の仏であって、末法今時の仏ではない。いかに法華経二十八品が釈迦仏法の最高峰であるとはいえ、末法今日においては、たんに哲学的意義を有するのみであって、その実践活動にあたっては、民衆を少しも幸福にすることはできないのである。
いま、世を見渡すのに、貧乏で悩み、病気で悩み、火事や水害などの不慮のことにおどろかされ、あるいは不良の子を持っては悩み、あるいは医者ではどうすることもできぬ病魔におかされて世をはかなみ、ただの一軒も、ただの一人も、悩みなきところはないのである。
日本はまだよしとして、朝鮮民衆の苦しみは極度にいたり、中国の民衆これまた、ただ生きるだけの生活である。東インドシナにおいても、インドにおいても、どうして平和楽土なりとみることができようか。かかる悩みの世界を、だれが救い、だれが助けるのであろうか。
末法に、この悩みを救うべき仏がないのか。いな、いまより七百年以前に、はじめて南無妙法蓮華経とお唱えあそばした日蓮大聖人様こそ、この末法民衆の苦しみをお救いくださる御本仏なのである。
ゆえに、大聖人様の、「四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや」とのおおせは、「日本の法華経の行者日蓮こそ末法の仏なり」とのご確信より出でたおことばである。
疑る者あって、「ただそれだけのことばのみをもって.日蓮大聖人を末法の仏と決定するわけにはいかぬ」というならば、その者らは文字のみみて文意を読みきれぬ者と断じうるが、かく断ずることのみによって、その疑える人々をして、「堕地獄」の果報をえさしめるはふびんなために.かさねて大聖人様が末法の御本仏たる大確信のことばをここに示しておこう。
百六箇抄(血脈抄、日蓮正宗門外不出の相伝抄)にいわく、
「下種の今此三界の主の本迹 久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本・今日は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生なり」(御書全集八六三㌻)
このおことばを信じなければ、予のごとき理即の愚人、いかにして彼らの迷妄を破れん、悲しきかな、悲しきかな、眼あらん者は、この御抄を拝して、日蓮大聖人様が末法の本仏たること、いささかも疑いなきであろう。
されば、七百年の今日、七文字の法華経は、近くは日本の民衆、遠くは朝鮮、中国、インドの民衆を救わんこと、つゆ疑いなきことである。仏法もまたもってかくのごとし、正像には西より東に向かい、末法には東より西へ行くの予言、かならず的中しなければならぬ。いかんとなれば、御本仏の予言であるからである。
しからば、いつをもって、その時と定むるやというに、予は立宗七百年を期として、これより盛んに広宣流布することを断定するものである。
いかんとなれば、大聖人様御在世中、仏力・法力の威力によって起こりえなかった七難のうちの最後の一難、他国侵逼難が日本国土に起こり、そのときは、日本を襲ったところの梵天、帝釈の一群、辰巳の方より早風のようにきたではないか。由比ヶ浜辺において、大聖人様凡身を捨てて仏身を現ずるとき、明星天王、辰巳より大なる光りものを送っておよろこびを申しあげ、いま広宣流布の前兆として、他国侵逼難のとき謗法の国を攻めさせたもう梵天、帝釈は、同じく辰巳の方より威力をあらわして広宣流布を智者に知らしめたではないか。
また日本の国に起こりつつある七難は、一国あげての飢饉といい、自界叛逆難といい、徐々にあらわれつつあるではないか。また、かならずやこのとき、大聖人様の命を受けたる折伏の大闘士があらわれねばならぬと、予は断ずるのである。
この折伏の大闘士こそ、久遠元初においては父子一体の自受用身であり、中間には霊鷲山会において上行菩薩に扈従(こじゆう)して、主従の縁を結び、近くは大聖人様御在世のとき、深き師弟の契りを結びし御方であるにちがいない。この御方こそ大聖人様の予言を身をもって行じ、主師親三徳の御本仏を妄語の仏ならしめずと固く誓って、不自惜身命の行を励むにちがいないと固く確信するものである。
わが創価学会は、うれしくも、このとき、誕生したのである。広宣流布の大菩薩ご出現に間に合うとやせむ、間に合わぬとやせむ、ただただ宗祖日蓮大聖人様、御開山日興上人様の御命にまかせ、身命を捨ててあらあら広宣流布なして、大菩薩のおほめにあずかろうとするものである。
会員諸君に告ぐ。
われらこそは、えらばれたるところの末法御本仏の弟子であり、家来であり、子どもである。主人の命を奉じ、父の慈悲にむくい、師の教えにしたがって、広宣流布のさきがけをしようではないか。その福運たるや、無量無辺であることを、予はまたここに断言するのである。
本尊流布のご奉公こそ、御本仏大聖人様の心からおよろこびのことであり、われら宿命打破の根源の方法である。七百年以前の最初の題目の一声、弘安二年十月十二日の一幅の大曼荼羅、ただただ、ありがたさに涙あふるるものである。
(昭和二十七年六月三十日)