偶感

 私は会長になることが、ほんとうにいやであった。いやというよりも、こわいといったほうが適切であったかもしれない。なぜかといわれれば返事ができないし、自分でもわからなくて、ただきらいでこわかったのである。いまにしてみれば、よくよくその意味はわかるけれども、当時は前述のような気持ちでいっぱいだったのである。


 牧口先生のお年は七十を超えてこられているし、二十年前から、ただ一人の弟子であり、また最古の弟子であり、情においては父子である。先生の家庭問題においては顧問であり、学会では最初からの理事長である自分としては、先生に万一のあった場合、自分以外に会長職につくものがいないことは、当然知っているのであるけれども、前述のような心境が、会長職になるまいといろいろくふうしたのであった。


 最初に寺坂陽三君を育てていって牧口先生の後継者にしようとしたが、かの小才子は、ついに私の計画をして失敗ならしめた。次に現中野の支部長である神尾武雄君に目をつけて、先生とともども相談のうえ、先生が師となって訓育にあたったが、これまた失敗に帰したかたちである。そこで、信心がそうとう強くなっていた野島辰次君を、事業のうえからも信心のうえからも援護して、副理事長の位置につけたのは昭和十八年の春のことであった。野島君も、事業も成功してきたし、私が酒ばかり飲んで遊んでいるのをいまいましく思ったらしく、一生涯、牧口先生について研究もし、働きもしたいということをもらしていた。


 そこで、昭和十八年秋の総会に、理事長職をゆずるということも、ほぼ決定的になってきた。されば名実ともにそろった後継者ができかけたので、私としては、内心、ひじょうにうれしかった。これで、一番いやな、こわいような感じがする将来がなくなったと思ったのであった。

 

 ところが、昭和十八年の七月。突如として学会に大弾圧が加わり、幹部二十一名は投獄されたのである。
 法難二年の独房生活、昭和二十年七月三日出獄して帰るや、じつに惨憺たる学会であった。幹部二十一名のうち牧口先生は牢死し、私をのぞいた十九名はことごとく退転していたのであった。


 あれほど有望であった野島君も、金玉変じて糞玉となっていたのである。ふたたび再建運動にかかった私は、やむなく会長空席の理事長として昭和二十六年まできたのであった。その間、現筆頭理事はじめ数人の幹部より再三再四にわたって会長就任を懇請されたが、私はどうしてもその気になれなかった。
 

 しかるに昭和二十五年、二度目の不思議にあい、また謗法からきたところの大難を受けて、そこに大きな現証をみ、からだ全身が世の苦悩を救わねばならぬという大確信につつまれたのであった。私は自分のからだ全体を学会のなかに投げ出し、世の苦悩の民衆のなかに葬むると決意したのである。この決意の日が、昭和二十六年五月三日であったのである。
                          (昭和二十七年六月三十日)