大利益論

 

 (下)

 前に、法華経および御遺文によって、ご利益の文証を示したが、いま一歩つきすすんで、現世利益の文証を明らかにしてみたいと思う。


 大御本尊様の功徳は絶大なものであるから、大御本尊様を信じたてまつって題目を唱える利益は、広大無辺といわなくてはならない。また助行として唱える自我偈に、なお深い功徳がある。

 法華経の観世音菩薩普門品には、この妙法蓮華経の功徳のことが説かれているが、大聖人様は「観世音菩薩普門品の利益は寿量品の自我偈の残りのかすである」(趣意)とおおせられている。自我偈の残りかすという意味は、御本尊様の功徳の小部分であるということである。


 いまここに、観音品の利益を、ごく概略して述べると、だいたい次のようである。


、おおいに事業商売をして、金儲けをしようとするときに、災難が起こる。そのとき、御本尊様を頼りまいらせると、その災難をのがれることができる。

、相手がひどいめにあわせてやろうと考えたり、また、大きな損が起こってくるような場合、反対に、相手がひどいめにあうようになったり、損が得になったりする。

、煩悩および病気の苦しみにあうとき、御本尊様を信ずるならば、煩悩も悟りとなり、病魔もこれをおかしきることができない。
、ガケから落ちたり、乗り物の事故にぶつかったりするとき、御本尊様を信じているときは、けがをしないですむ。

、自分の職業の位置から落とされようとしたとき、御本尊様を信じている者は、逆に相手がやめなくてはならなくなったりして、落とされないですむ。

、相手が憎んだり、害を加えたりするときに、信心が強いと、相手の心が変わってしまう。

、死刑にならなければならぬような運命も、信心の強き者は死刑にならなくてすむ。このことは、刀杖尋段段壊といって、大聖人様のお示しくださったおすがたである。

、牢獄へはいらなければならない宿命の者でも、信心の強い者ははいらないで、かえされてくる。
、毒薬を飲まされようとしたり、悪口を言われたりすれば、かえって相手が悪口を言ったようなめにあったり、毒薬を飲まされたりする。これは還著於本人というのである。

、大アラシのときでも、信心の強い者は、その害を受けなくてすむ。


 まだまだ、たくさんの利益がいわれているけれども、そのなかから抜きだしてみれば、以上のようなものである。これ、現世安穏の証文であって、ことごとく末法御本仏のお約束である。
 

 このことを再確認するために、日寛上人様のおことばを引くならば、

「故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり(観心本尊抄文段)と。


 この絶大の力ある御本尊様なれば、ゆめ疑わず信心するならば、前述の観音品の功徳は、かならず、かならず、あらわれるのである。これ現世安穏のお約束と、ありがたく拝さなければならない。
 さて、前述の利益は、まだ低い利益であって、これ以上の利益があるそれは、生命力が絶対的に旺盛になるということである。生命力が旺盛であれば、悩みだ、苦しみだ、貧乏だなどと、いろいろな愚癡をいう世界が、明るい楽しい世界に変わるのである。
 また、われわれは、いろいろな条件にしばられている。親子の関係だとか、兄弟だとか、友だちだとか、着物だとか、住居だとか、交際だとか、税金だとかいうものに拘束された世界が、われわれの生活である。しかし、偉大な生命力を把持するならば、これらを苦縛とせず、楽しみとすることができる。すなわち、これを解脱というのである。

 

 偉大な生命力こそ、われわれの生活にとってかくべがらざるものであって、これが御本尊様を信ずることによってえられるのであるから、大利益である。


 どうして御本尊様を信じたら、生命力の偉大をえることができるかについて文証を述べる。
 

 生死一大事血脈抄にいわく、
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(御書全集一三三七㌻


「久遠実成の釈尊」とは、本地無作の三身如来、末法の御本仏、宗祖日蓮大聖人様である。
「皆成仏道の法華経」とは、大聖人究竟のなかの究竟の極説たる、弘安二年十月十二日、一閻浮提総与の御本尊様のことである。「我等衆生」とは日蓮正宗信者の謂である。「解る」とは、われらがごとき凡愚の者、大聖人様のご慈悲をこうむって、われらと大聖人と御本尊は三者一体なりと知ることである。


 ゆえに、大御本尊様を信じまいらせて題目を唱うるとき、信は因となり、口唱は果となって、この信行倶時にして仏果をえ、われわれの生命のなかに、久遠無作三身如来の御生命がヒシヒシと流れつたわってくるのである。これ「生死一大事の血脈」というのである。


 されば、大御本尊様にむかって、この御本尊様と大聖人様と自分とが区別がないと信じて、そのありがたさを心にしみて感謝申しあげ、熱心に題目を唱えるとき、宇宙のリズムとわがリズムと調和して、宇宙の大生命が即わが生命とつらなり、偉大な生命力が涌現してくるのである。泉よりコンコンと水のわきあがるがごとく、地涌の菩薩、法性の淵底より仏前にあらわるるがごとく、強き強き生命力は涌現するのである。これこそ、生活個々にあらわれた小利益よりも、まことの大利益と喜ばなくてはならない。
 

 たとえば、六歳の子どもが八里の峠を十貫目のものを背負って上下するとすれば、じつにかわいそうなかぎりである。景色を見る考えもなければ、春の花、秋の紅葉も清き谷の流れもなにかせんである。ところが、二十二、三の青年で体格も二十貫以上あって、からだも鍛えに鍛えた者であれば、十貫ぐらいの荷物は平気である。八里の峠を楽しみながら上下するであろう。

 かくのごとく、人生も種々なる苦難の峠である。たがいに過去世の宿業を背負い、現世の約束にしばられて、この峠を往復しなければならない。

 

 生命力の弱き者は、たえず泣きながら、苦しみながら、人生をわたるのである。生命力のたくましき者は、楽しみながら、わたるのである。されば、生命力に偉大なる功徳をえることこそ、真の利益ではないか。ここまで利益を論じてくれば、たいへんなご利益のあることがわかるであろう。


 ところが、これ以上の利益があるのである。これを知っている者は、ごくまれであって、またこれを願う者も、現代においては、ごくごくまれな人である。現代の人間はひじょうに欲ばりでありながら、この絶大な利益を願わない点においては、無欲とも小欲とも愚かともいうよりほかにない。この利益こそ、仏法を修行する者の究極の願いでなくてはならないのである。
しからば、その大利益とはなにか。
 

 成仏ということである。
 

 一生成仏抄に、
 「一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり、然ればすなはち善悪に付いて起り起る処の念心の当体を指して是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば成仏の直道とは云うなり、此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば一生成仏更に疑あるべからず」(御書全集三八四㌻)
 

 開目抄にいわく、
「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし、妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし」(御書全集二三四㌻)
 

 女人成仏抄にいわく、
「然るに竜女・畜生道の衆生として戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり、是を始として釈尊の姨母・摩訶波闍波提比丘尼等・勧持品にして一切衆生喜見如来と授記を被り・羅喉羅の母・耶輸陀羅女も眷属の比丘尼と共に具足千万光相如来と成り、鬼道の女人たる十羅刹女も成仏す、然れば尚殊に女性の御信仰あるべき御経にて候」、またいわく、「殊に過去聖霊は御存生の時より御信心他に異なる御事なりしかば今日講経の功力に依って仏前に生を受け仏果菩提の勝因に登り給うべし」(御書全集四七三㌻)
 

 惣在一念鈔にいわく、
「一文不通の愚人南無妙法蓮華経と唱えては何の益か有らんや。答う、文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先ず口業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子をむねの中に収めて必ず出離の人と成るなり」


三世諸仏総勘文教相廃立にいわく、
「仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取って己心に摂むるが故に心の外に法無きなり己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く『如是相「応身如来」如是性「報身如来」如是体「法身如来」』此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周偏して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目・僻思・立所に散止して本覚の寤に還って皆仏道を成ず」(御書全集五六一㌻)
 またいわく、
 「本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く『今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり』と已上、仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入って本覚の理を忘れ髮筋を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入って衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由って己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩も無く障りも無き衆生の運命なり」(御書全集五六五㌻)

 文、繁多であって、もし大聖人様の御遺文より成仏の御文証を引いたならば、数限りない。


 いま、反対に、成仏しないということをお悲しみになって、お書きになった御文証を引いてみる。
 

成仏用心抄にいわく、
法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(御書全集一○五六㌻)

 このように、妙法蓮華経の信仰は、成仏するかしないかの問題が根本の問題である。成仏するということが仏法修行の根底であり、成仏するほどの幸福はないと、大聖人様はおおせになっておられるのである。


 されば、開目抄に、「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」(御書全集二三七㌻)というおおせは、深く味わうべきである。
 

 しからば、成仏とはいかなることか。とうてい、われわれ凡愚には、このご境涯は説くあたわずとはいえども、各自の信心の智解の千万分が一ともならんかと思って説いてみる。


 永遠の幸福を獲得するということである。われわれの生命というものは、この世限りのものでは絶対ない。永遠に生きるものである。永遠に生きるのに、生まれてくるたびに、草や木や、イヌやネコや、または人となっては、貧乏人、病気、孤独等の生活を繰り返すことは、考えてみてもとうてい忍びえないことである。


 成仏の境涯をいえば、いつもいつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに思うがままに活動して、その所期の目的を達し、だれにもこわすことのできない福運をもってくる。このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万べんと、楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、かわいそうというよりほかにない。
 この成仏のことについて、深く思索してみるために、次の御文証を引いてみよう。

 三世諸仏総勘文教相廃立の御書に、
「三世の諸仏の御本意に相い叶い 二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり 滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ 須臾の間に 九界生死の夢の中に還り来って 身を十方法界の国土に遍じ 心を一切有情の身中に入れて 内よりは勧発し 外よりは引導し 内外相応し 因縁和合して 自在神通の慈悲の力を施し 広く衆生を利益すること滞り有る可からず。三世の諸仏は此れを 一大事の因縁と思食して 世間に出現し給えり……然るに 宿縁に催されて 生を仏法流布の国土に受けたり 善知識の縁に値いなば 因果を分別して 成仏す可き身を 以て善知識に値うと雖も 猶草木にも劣って 身中の三因仏性を顕さずして 黙止せる謂れ有る可きや、此の度必ず必ず 生死の夢を覚まし 本覚の寤に還って 生死の紲を切る可し 今より已後は 夢中の法門を心に懸く可からざるなり、三世の諸仏と 一心と和合して 妙法蓮華経を修行し 障り無く開悟す可し 自行と化他との二教の差別は 鏡に懸けて陰り無し、三世の諸仏の勘文 是くの如し 秘す可し秘す可し」(御書全集五七四㌻)


「三世の諸仏の御本意に相い叶い」とは大御本尊様を信じ題目を唱えることである。「二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり」とは大御本尊様のご利益をこうむることである。「上上品の寂光の往生を遂げ」とは、成仏のことである。「須臾の間に九界生死の夢の中に還り来って身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れ」とは、すなわち、また生命がふたたび還って、人として、あるいは目的をもっている生命として活動を起こす状態である。


 かくのごとく、成仏といっても、特殊のところに生きながらえているのではなく、たえず九界の世界に遊戯していることをおおせである。

 

「内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して」とは、ふたたび大御本尊様にお目にかかることをいうのである。「自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず」とは、慈悲の境涯より大御本尊様の一分の御目的をちょうだいし、生まれてきたところのその生命の目的にたいして、十分なる価値活動をなして、みずからも楽しみ、他も利益して、自在無礙の生活を感ずることである。かくのごとき幸福こそ真実の幸福といわねばならぬ。この成仏の境涯をえんとねがうことを、さらにかさねて吾人は願うものである。


 さて、以上の功徳について、かさねていわねばならぬことは、初信の功徳と、一生涯を通じてあらわれる功徳についてである。
 はじめて信仰した者には、かならず功徳がある。これは初信の功徳ともいうべき功徳である。この初信の功徳の絶対なることを信じねばならぬ。

 なぜならば、今時、大聖人様滅後七百年の今日においては、本尊の雑乱、はなはだしきものである。日蓮正宗の本尊を除いては、ことごとく天魔外道の本尊である。すがたは仏に似せようと、神をあらわそうと、みな内証においては天魔外道である。しかるに、日蓮正宗の御本尊は、大聖人の御生命御自身であり、三世十方の諸仏の本尊であり、眼目である。ゆえに、この大御本尊様を信じたてまつれば、三世十方の仏菩薩は、この信者を「善い哉、善い哉」とほめたてまつり、天魔外道はおそれをなすのである。信力・行力が強ければ、これに応じて法力・仏力が強くあらわれて、ここに利益を感ずるのである。


 これ、本尊の大威力示現の相であって、疑うことのできない事実である。御本尊の法力・仏力をお示しになって、最初のご利益をえたのちは、各自のもつ過去の罪報によって、消さねばならぬものを消し、受けねばならぬものを受けて、罪報を消すのである。ふつうには罰というのである。これとて、信力・行力の強い者は、護法の功徳力によって軽く受けつつ、真の成仏への道をたどるのである。このことは、佐渡御書および開目抄につぶさにお示しであれば、よくよく拝読すべきである。


 さて、かくして、信力・行力の強い者は、かならず成仏する。その成仏の証拠として、現世においてあらゆる幸福をえるのであって、その幸福を知って、未来の成仏を確信しなければならないのである。
 

 いいかえれば、初信の功徳は、大御本尊様に威力のある証拠であり、御本尊様を信じた者が一生の間に、かならず幸福になるということが、成仏するという証拠となるのである。


 このように、ご利益を論ずれば、だんだんと高く深くなってくるが、吾人をもっていわしむれば、大御本尊様を信奉したてまつる功徳というのは、これだけのものではない。日寛上人の、御本尊の功徳無量無辺というおことばが思い出される。無量無辺であるから、私ごとき者の説きつくせるものでは絶対にない。


 私にこれ以上会通を加えることは、大御本尊様にたいして申しわけないことである。ただ、ありがたさのためにこれを述べるのであるが、成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来にむかって仏であると覚悟することである。

 

 もったいなや、かかる不浄の身が、御本尊様を受持したてまつることによって、仏なりと悟るとは、なんというありがたいことではないか。この果報こそ、なにものにもかえがたい果報であって、ひとえに大御本尊様の大功徳である。何をもってご供養したてまつらん。生きては折伏を行じ、死しては、たとえ地獄の衆生になっても、御本尊様を胸にだきしめ、畜生道にいたっては大聖人のお衣のはじをくわえ、生々世々、ただ御本尊様に離れまいと、朝夕、お願いしたてまつるばかりである


 願わくは、諸氏は、私にまさる大利益をえられんことを。
                            (昭和二十六年十二月一日)