大利益論
 

(上)

 日蓮大聖人の三大秘法の御本尊を拝したてまつり、純一無二の心をもって信心するなら、どんな功徳があるか。いま文証をたずねるのに、その文は繁多であるが、二、三を引くことにする。

法華経譬喩品にいわく、
「無智の人の中にして 此の経を説くこと莫れ 若し利根にして 智慧明了に 多聞強識にして 仏道を求むる者有らん 是の如きの人に 乃ち為に説くべし 若し人曾て 億百千の仏を見たてまつりて 諸の善本を植え 深心堅固ならん 是の如きの人に乃ち為に説くべし 若し人精進して 常に慈心を修し 身命を惜しまざらんに 乃ち為に説くべし 若し人恭敬して 異心有ること無く 諸の凡愚を離れて 独り山沢に処せん 是の如きの人に 乃ち為に説くべし 又舎利弗 若し人有って 悪知識を捨てて 善友に親近するを見ん 是の如きの人に 乃ち為に説くべし 若し仏子の 持戒清潔なること 浄明珠の如くにして 大乗経を求
むるを見ん 是の如きの人に 乃ち為に説くべし 若し人瞋無く 質直柔?にして 常に一切を愍み 諸仏を恭敬せん 是の如きの人に 乃ち為に説くべし 復仏子の 大衆の中に於いて 清浄の心を以って 種種の因縁 譬喩言辞をもって 説法すること無礙なる有らん 是の如きの人に 乃ち為に説くべし 若し比丘の 一切智の為に 四方に法を求めて 合掌し頂受し 但楽って 大乗経典を受持して 乃至 余経の一偈をも受けざる有らん 是の如きの人に 乃ち為に説くべし 人の至心に 仏舎利を求むるが如く 是の如く経を求め 得已って頂受せん 其の人復 余経を志求せず 亦未だ曾て 外道の典籍を念ぜじ 是の如きの人に 乃ち為に説くべし 舎利弗に告ぐ 我是の相にして 仏道を求むる者を説かんに 劫を窮むとも尽きじ 是の如き等の人は 則ち能く信解せん 汝当に為に 妙法華経を説くべし」(妙法蓮華経並開結二四六㌻)


 この文証は譬喩品の罰を説かれた後に、広く善人のために説くべしとの段階において説かれているのであるが、静思して拝読するなら、この教典において説かれているご利益論である


 第一に、智慧明了となり、多聞強識となる。
 第二に、過去の生命の深いところにある、よい因縁があらわれ、信心が深くなるという利益がある。
 第三に、精進、慈悲等の不思議な心があらわれてくる。
 第四に、禅定の境地がえられる。
 第五に、親戚中によい人のみが集まるようになる。
 第六に、御本尊様を求めてやまない境地になる功徳がある。
 第七に、怒りなく、すなおな境地になることができる。
 第八に、仏の境地をもって折伏できる功徳がある。
 第九に、邪教を絶対に受けないようになる功徳がある。
 第十に、御本尊様以外の何物も求めない境地になってくる。
 第十一に、正宗以外の何者の議論にも動かされない境地になってくる。


 以上は、譬喩品の利益を要約したのであるが、第五の薬草喩品に次のように説いている。「現世安穏 後生善処」(妙法蓮華経並開結二八二㌻)、

 この世のなかにおける生活は安穏にして平和であり、死して後はよきところに生まれて、生死ともに幸福なりと、幸福の利益を説かれている。


 また寿量品の自我偈には、
 「我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種種の宝をもって荘厳し宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に衆の伎楽を作し 曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず」(妙法蓮華経並開結五〇八㌻


 とあって、この文は三世間・十界・一念三千の御文ではあるが、すなおに拝読すれば、吾人らの生活これ仏の境涯であって、絶対ゆるがぬ永遠の幸福境を約束せられているのである。
 

 わがこの娑婆世界は安穏、平和のところでなければならない。原子爆弾がとんだり、爆弾が飛行機からふったりしてはならないのである。
 人殺しだの、餓死だのということが、妙法流布の世界にはあってはならない。資本家の搾取だとか、また、赤旗をたてて労働争議だとか、住む家がなくて八畳間に三家族だとか、なんどのことはありえない。また家庭においても、親子げんか、夫婦げんか、生活苦などはないというお約束なのだ。

 それだのに、事実との相違は、どうしたことだろうか。
 

 また随喜功徳品には、五十展転の功徳を説いて、
「若し四百万億阿僧祇の世界の六趣、四生の衆生は 卵生、胎生、湿生、化生、若しは有形、無形、有想、無想、非有想、非無想、無足、二足、四足、多足、是の如き等の衆生の数に在らん者に、人有って福を求めて、其の所欲に随って、娯楽の具、皆之に給与せん。一一の衆生に閻浮提に満てらん金、銀、瑠璃、硨磲、碼碯、珊瑚、琥珀、諸の妙なる珍宝、及び象馬、車乗、七宝所成の宮殿、楼閣等を与えん。是の大施主、是の如く布施すること、八十年を満てて、已って是の念を作さく、我已に衆生に、娯楽の具を施すこと意の所欲に随う。然るに此の衆生、皆已に衰老して、年八十を過ぎて、髪白く、面皺んで、将に死せんこと久しからじ。我当に仏法を以って、之を訓導すべし。
 即ち此の衆生を集めて、宣布法化し、示教利喜して、一時に皆須陀?道、斯陀含道、阿那含道、阿羅漢道を得、諸の有漏を尽し、深禅定に於いて、皆自在を得、八解脱を具せしめん。汝が意に於いて云何。是の大施主の所得の功徳寧ろ多しと為んや不や。弥勒、仏に白して言さ
く、世尊、是の人の功徳甚だ多くして、無量無辺なり。若し是の施主、但衆生に一切の楽具を施さんすら、功徳無量ならん。何に況んや阿羅漢果を得せしめんをや。
 仏、弥勒に告げたまわく、我今分明に汝に語る。是の人、一切の楽具を以って、四百万億阿僧祗の世界の、六趣の衆生に施し、又、阿羅漢果を得せしめん。所得の功徳は、是の第五十の人の法華経の一偈を聞いて、随喜せん功徳には如かじ。百分、千分、百千万億分にして、其の一にも及ばじ。乃至算数譬喩も知ること能わざる所なり。阿逸多、是の如く第五十の人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳、尚無量無辺阿僧祇なり。何に況や、最初会中に於いて、聞いて随喜せん者をや。其の福復勝れたること、無量無辺阿僧祇にして、比ぶること得べからず」(妙法蓮華経並開結五三二㌻)
 

 この段においての、三世の諸仏の妙法を受持する者へ功徳の約束は、じつに広大無辺であるとのおことばである。
 末法今日、御本尊を受持する者の功徳は、願いとして達せざるなく、祈りとしてかなわざるなく、福運としてきたらざるなく、いかなる所願もかならず満足するとのお約束である。


 この広大なる福運は、三大秘法の大本尊に具有せらるるのであって、吾人の信力・行力が、深大であればあるほど、大御本尊の法力・仏力も深大にあらわれるのである。
 ゆえに、些少といえども疑う心なく、信心無二に行ずるなれば、かならずわれわれの所願は満足せらるるのである。
 あまりに偉大な功徳を約束せらるるので、初信の者はおどろくであろうが、けっして誇妄のことではないのである。
 

 次にまた、具体的に三段にわけて同品において功徳を細論しているから、これを引用する。
 第一段に、
「若し人、是の経の為の故に、僧?坊に往詣して、若しは坐し、若しは立ち、須臾も聴受せん。是の功徳に縁って、身を転じて生れん所には、好き上妙の象馬、車乗、珍宝の祭輿を得、及び天宮に乗ぜん」(妙法蓮華経並開結五三五㌻)
 第二段に、
 「若し復人有って講法の処に於いて坐せん。更に人の来ること有らんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分って坐せしめん。是の人の功徳は、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん」(同㌻)
 第三段に
 「若し復人有って余人に語って言わく、経有り。法華と名づけたてまつる。共に往いて聴くべしと。即ち其の教を受けて、乃至須臾の間も聞かん。是の人の功徳は、身を転じて陀羅尼菩薩と共に、一処に生ずることを得ん。利根にして智慧あらん。百千万世に、終に瘖瘂ならず。口の気臭からず。舌に常に病無く、口にも亦病無けん。歯は垢黒ならず、黄ならず、疎かず、亦
欠落せず、差わず、曲らず、脣下垂せず、亦褰縮ならず、麤渋ならず、瘡胗ならず、亦欠壊せず、亦喎邪ならず、厚からず、大いならず、亦黧み黒ならず、諸の悪むべきこと無けん。鼻 へんだい ならず、亦曲戻ならず、面色黒からず、亦狭く長からず、亦窪み曲らず、一切の憙うべからざる相有ること無けん。脣・舌・牙・歯、悉く皆厳好ならん。鼻修く、高直にして、面貌円満し、眉高くして、長く、額広く、平正にして、人相具足せん。世世に生れん所には、仏を見たてまつり、法を聞いて、教誨を信受せん。阿逸多、汝且く是れを観ぜよ。一人に勧めて、往いて法を聴かしむる。功徳此の如し。何に況んや、一心に聴き説き読誦し、而も大衆に於いて、人の為に分別し、説の如く修行せんをや」(妙法蓮華経並開結五三五㌻)


 第一段は、妙法蓮華経を信ずる者、かならず物質的な幸福をえるということである。すなわち、物質生活において十分みちたりる生活ができるということを予言しているのである。信力強盛に、行力また御仏智にかなうならば、法力・仏力のあらわるるところ、生活に困ることはないのである。


 第二段においてのお約束は、慈悲をこめた折伏は、それがたとえ少ないものであっても、その功徳は、かならず上長の人となる。すなわち官吏であれば、大臣とか局長とか、あるいは部長、係長と、その人の分に応じて目上の人となるし、会社なら社長とか、課長とか、係長とかと、みなみな分に応じて長者の位置につくのである。


 第三段においては、人もし御本尊を信じ、折伏に精進するならば、魔のおかすところとはならない。けっして天魔鬼神におかされることのない平和な生活ができる。そのうえ、りこうになり、智慧もますであろう。バカがりこうになる大功徳があるのである。こんなありがたい教えがあろうか。

 また、肉体においても健康であって、かつ、りっぱにしてきりょうよくなるというのである。大御本尊を信ずれば病気がなおるという文証がこの文である。また事実として純真なる信心をする者は、その人相がたいへんよくなっているのである。

 そのほか、功徳の文証を法華経に求めるならば、数限りないのである。現世において現の果報もあるとか、または盗賊の難をのがれると、または観音品においては、ここで述べきれないほどの功徳が述べられている。


 末法今日、文底の法華経において文上の法華経を文証にし、また仏の約束とすることができるかどうかということを考える者もあるであろうが、文底の顕本があらわれ終われば、いっさいの経典ことごとく文底下種の仏法の文証となることを述べておくのである。
 さてしからば、大聖人のおことばに、南無妙法蓮華経の御本尊を信ずる者にいかなる功徳ありと御おおせあるかを述べることにする。


 可延定業書にいわく、
「阿闍世王は御年五十の二月十五日に大悪瘡・身に出来せり、大医耆婆が力も及ばず三月七日必ず死して無間大城に堕つべかりき、五十余年が間の大楽一時に滅して一生の大苦・三七日にあつまれり、定業限りありしかども仏・法華経をかさねて演説して涅槃経となづけて大王にあたい給いしかば身の病・忽に平愈し心の重罪も一時に露と消えにき、仏滅後一千五百余年・陳臣と申す人ありき命知命にありと申して五十年に定まりて候いしが天台大師に値いて十五年の命を宣べて六十五までをはしき、其の上不軽菩薩は更増寿命ととかれて法華経を行じて定業をのべ給いき、彼等は皆男子なり女人にはあらざれども法華経を行じて寿をのぶ、又陳臣は後五百歳にもあたらず冬の稲米・夏の菊花のごとし、当時の女人の法華経を行じて定業を転ずることは秋の稲米・冬の菊花誰か・をどろくべき。されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり」(御書全集九八五㌻)


 この御抄において、死すべき命すら、寿命を延ばすことができるとの、偉大な大聖人の確信を拝読することができるのである。
 四条金吾女房御書にいわく、
 「就中夫婦共に法華の持者なり法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生れん目出度覚え候ぞ、色心二法をつぐ人なり争か・をそなはり候べき、とくとくこそ・うまれ候はむずれ、此の薬をのませ給はば疑いながるべきなり、闇なれども灯入りぬれば明かなり濁水にも月入りぬればすめり、明かなる事・日月にすぎんや浄き事・蓮華にまさるべきや、法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり、信心の水すまば利生の月・必ず応を垂れ守護し給うべし、とくとくうまれ候べし法華経に云く『如是妙法』又云く『安楽産福子』云云」(御書全集一一〇九㌻)


 この御抄は、大御本尊を信ずる者は福子を産むとの御おおせのご確信であらせられる。すなわち、われわれ信者が妊娠の場合、御守御本尊を身につけるは、これがためである。このように母親が大御本尊を信じ、御守を身につけて生まれた子どもは、百人が百人、皮膚がきれいであって、すこやかに育っているのは現証である。


 日女御前御返事にいわく。
 「かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人・現在には幸をまねき後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて闇に燈の如く険難の処に強力を得たるが如く・彼こへまはり此へより・日女御前をかこみ・まほり給うべきなり、相構え相構えてとわりを我が家へよせたくもなき様に謗法の者をせかせ給うべし」(御書全集一二四四㌻)


 生前死後にわたる幸福の保証は、この御文にあり、まことにありがたきことと、大聖人のご慈悲をよろこぶものである。

 妙心尼御前御返事にいわく、
 「このまんだらを身にたもちぬれば王を武士のまほるがごとく・子ををやのあいするがごとく・いをの水をたのむがごとく・草木のあめをねがうがごとく・とりの木をたのむがごとく・一切の仏神等のあつまり・まほり昼夜に・かげのごとく・まほらせ給う法にて候、よくよく御信用あるべし」(御書全集一四七七㌻)


 この大御本尊を信ずる者には、諸天善神がかならず守りたもうべしとのおことばである。われら諸天善神の加護、ゆめゆめ疑うべがらざるものである。


 大田殿女房御返事にいわく、
 「此の供養によりて現世には福人となり後生には霊山浄土へまいらせ給うべし」(御書全集一○一八㌻)


 生死ともに幸福であるとの御文証である。かならず、かならず信じまいらすべきである。
 

 大田殿女房御返事にいわく、
 「今法華経に衣をまいらせ給う女人あり後生に・はちかん地獄の苦をまぬかれさせ給うのみならず、今生には大難をはらひ其の功徳のあまりを男女のきんだちきぬにきぬをかさね・いろにいろをかさね給うべし」(御書全集一〇一三㌻)

 さじき女房御返事にいわく、
「此のかたびらも又かくのごとし、たとへばはるの野の千里ばかりに・くさのみちて候はんに・すこしの豆ばかりの火を・くさ・ひとつにはなちたれば一時に無量無辺の火となる、此のかたびらも又かくのごとし、ひとつのかたびら・なれども法華経の一切の文字の仏にたてまつるべし。この功徳は父母・祖父母・乃至無辺の衆生にも・をよぼしてん、まして・わが・いとをしと・をもふ・をとこは申すに及ばずと、おぼしめすべし、おぼしめすべし」(御書全集一二三一㌻)


 前の二つの御抄は、大御本尊様に御供養をたてまつった者の功徳をおほめくださっているのであって、この供養に二つあることを知らなければならない。一つには物の供養、一つには折伏の供養である。大聖人様は、日蓮正宗教団の真の御僧侶、およびその関係に供養されることをおよろこびあそばされるのはもちろんのこと、それにもまして日蓮正宗教団が興隆して、大聖人の御予言のごとく、東洋の仏法として広宣流布せられることを、真実におよろこびになることである。それがためには、折伏教化こそ身をもって大聖人様へ供養したてまつったもので、この功徳広大無辺といわなくてはなるまい。


 如説修行抄にいわく、
 「法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可がらざる者なり」(御書全集五〇二㌻)


 「権教権門の輩を一人もなく・せめをとして」とは、禅宗、念仏、華厳等の一代応仏の流れをくむ諸宗、キリストおよび神道を信ずる徒が、日蓮大聖人の文底下種の仏法に帰依し、二心なく南無妙法蓮華経と唱えたてまつることで、「法王の家人となし」とは、日蓮大聖人を御本仏と日本国中があおぐことである。「諸乗一仏乗と成って」とは、日蓮大聖人の仏法理念が根本となることである。


 いうまでもなく日蓮正宗だけが大聖人より嫡々相伝の家であって、いかに日蓮宗を名のるとも、日蓮正宗以外は、大聖人の相伝の宗ではなく、不相伝家と称する宗で、大聖人の極理を知らないがゆえである。ゆえに一天皆帰妙法は、日本一国に日蓮正宗がゆきわたることで、かかるみぎりには日本国中、平和安穏であるとの功徳の御抄である。
                         (昭和二十六年十一月一日)

※私見

 戸田城聖先生は日蓮大聖人の生まれかわりと思う。対して池田大作先生は、ただ組織の存続を願ったのではないか。池田大作先生は、御書のことも、法華経のことも、深くはご存じではなかったのではないか。ただ題目だけでいい、と思われて、その大聖人の真意を掴み取ろうとされていなかったのではないか、そして戸田城聖先生が様々に話されたその真意を理解はされていなかったのではないかと思う。

 池田大作先生は、若くして会長になられたが、創価学会に入られてからは相当忙しかったのではないかと思う。そのため、戸田先生が巻頭言で書かれた「青年よ心に読書と思索の暇をつくれ」というのは、池田先生に対して言われたことではないかと思ったりもする。

 そんな思いも、今の創価学会や公明党をみていて感じることである。