宗教批判の原理

 日本の現在は種々の宗教があるが、これを批判する基準を知らない。ことに知識階級ぐらいは、これを知っておってよいはずだが、宗教教育のないために、唖法の尊者のようであるのは遺憾というよりほかはない。
 

 しからば、宗教批判の原理はなにか。
 五重の相対と、文証・理証・現証の三証と、教・機・時・国・教法流布の先後(宗教の五綱)とについて考察しなくてはならない。

       一、五重の相対


 ① 内外相対
 内道と外道の比較論である。内道とは仏教のことで、外道とは仏教以外の宗教である。すなわち、バラモン、キリスト教、儒教などのことで、この比較の基準は因果の理法にある。仏教は因果の理法を根幹とする。原因あれば、かならず結果がある。一法則ごとに原因・結果がある。すなわち、科学でなくてはならぬ。


 水素の二体積と酸素の一体積と化合せしむれば、かならず一体積の水蒸気をえられる。酸素と水素の化合という原因で、水という結果がえられる。これが科学で、この法則は時と所によらないのである。同様に、仏法の法則も、同一原因は、同一結果を、時と所とにかんせずあらわれるのであるから、科学なりと主張するのである。


 外道は、この原因・結果がはっきりしておらないので、内道よりおとるがゆえに、内外相対して内道は外道にすぐれるのである。

 ② 大小相対
 仏教のなかにも大乗教と小乗教がある。小乗教は釈迦が説法を始めて、十二年間の説で、倶舎宗・成実宗・律宗などで、それ以後の説法を大乗教というのである。乗とは「乗せる」ということで、小乗教は小部分の人をある期間中だけ救えるのであって、大乗教はあらゆる人を救える教えである。このゆえに大乗教は小乗教にまさるのである。
 しこうして、小乗教は日本にはほとんどなく、いま天理教や日蓮宗と称する邪宗教、あるいは新興宗教が、理法をもじって使っているのは、おかしなことである。時おくれの暦を、表紙を取りかえて使っているようなものである。

 ③ 権実相対
 大乗教のなかにも、権大乗教と実大乗教とがある。華厳経三七日の説法、方等部十六年間の説法で法相宗、浄土宗、禅宗、真言宗の依経と、般若部十四年間の説法で三論宗の依経が、権大乗である。この教えは方便の教えで、いまだ真実の教えではない。
 仏智をもって、衆生の機根を観じてこれに応じての説で、しばらく「権」の教えをたてて二乗の連中が小乗の教えで見思の惑を断じて仏と等しと思っているのを、方等部で弾訶し、般若部で誘引しているのである。権謀の教えといって、いまだ真実の教えたる宇宙の根本哲理、生命の真実観は説かないのであるから、これを説いた実教よりはおとるのである。

 ④ 本迹相対
 実教とは、釈迦最高の説法たる法華経八か年の教えであるが、これは本迹二門の理がある。
 法華部の肝心たる法華経二十八品の前十四品を迹門といい、後の十四品を本門という。迹門は、インドで仏となった釈迦が理論上の実相観を述べたのであるが、本門は、釈迦が永遠の生命観にたって、宇宙および生命の実相を述べたものである。
 

 すなわち迹門は、理論上の問題を取り扱ったもので、事実上の問題を取り扱っていない
 たとえば、百万円というお金は五十万円の二倍だとか、三十万円に七十万円を加えたものであるとかいうことで、本門は、いま七十万円の現金を持っている、そしてこの七十万円で買った物を売ると、現実に百万円の財産になるという事実である。七十万円に三十万円を加えると、百万円になるということは、七十万円で買ったものが、三十万円もうかって、百万円になったという事実からあらわれたことである。これが「本によって迹をたれ、迹によって本を顕す」ということである。


 百万円の金の勘定を計算のうえでいくらしていても、なんの役にも立たない。隣の財産を数えるみたいなものである。百万円の金を持つか持たぬかは実際生活である。この理より考えて、本門は迹門より尊いのであることを知らねばならない。
 

 しこうして、法華経二十八品について論ずるなら、釈迦の時代においては、迹化の菩薩、人も天も、みな本門に来入して仏をえたのである。すなわち、本門にいたって仏の境涯を感得したのである。また像法中、天台の一門は迹面本裏といって迹門を面として、本門を裏として、一切衆生を救ったのである。ゆえに本迹異なりといえども、不思議一なりと称し、迹門の理より本門の義を悟らしめ、得脱せしめたのである。正法、像法いずれにもせよ、迹門によっては仏にはなりえず、本門によって成仏したのである。


 されば法華経後十四品を本門と称すといえども、釈迦、天台の仏法であって、本門は迹門より高いというが、末法の用はなさないのである。よって大聖人は、「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」(御書全集一五四六㌻)とおおせられているのである。

⑤ 種脱相対
 仏法の修行にごくたいせつなことを、現代の人々は忘れている。これゆえ宗教の混乱を生じ、かつは、その批判に大なる誤謬をきたし、その価値において、たんなる修養ぐらいに考えてしまうのである。


 種熟脱の三義がそれである。種とは下種のことで、仏になる基根の原因と関係すること、すなわち、仏にあって仏になる種をえることである。
 大聖人の御おおせにも、「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(御書全集一〇五六㌻)と。
 熟とは過去の下種が薫発し調養することをいうので、脱とは下種された仏種が調養して、ついに仏と等しき境涯をえるのをいうのである。これみな、大利益であるがゆえに三益といい、下種益、熟益、脱益というのである
 さて、仏教を通観するに、釈迦は以上の三つの利益について、どの利益を衆生にたまわったかというに、脱益なのである。過去に種々なる仏、菩薩になっていたとき、結縁した衆生が釈迦の時代に生まれてきた。かれらは過去の時代に調養し、または釈迦の時代に調養して、ついに法華経にいたって仏の境地をえたのである。ゆえに釈迦出世の本懐は、過去の下種を熟し脱しめんがためである。なんの縁なき衆生が、ポツンと法華経に来入しても得脱はできないのである。
 

 しこうして、過去に下種されながら、釈迦の寿量品にあいえざる者、また、インド応誕に下種された者たちは、正法一千年、像法一千年間に調養し、脱したのであるが、まだまだ衆生が残っている。しかも、像法になってきたので、薬王菩薩の後身たる天台大師が出現し、熟益の仏法たる理の一念三千の珠を摩訶止観につつみ、一切衆生に与えたのである。ここにおいて、過去の下種の者は脱益の仏法にあい、調養しつつ、自然に得脱せしめられたのである。されば、インド応誕の釈迦仏法は熟益・脱益の仏法で、下種益の仏法ではないのである。


 さて、しからば、末法はいかん。
 われわれ末法の衆生は釈迦の仏法になんの結縁もないということを大前提として知らなくてはならない。なんの縁もないがゆえに、釈迦仏法においては下種もなければ熟もない。ゆえに釈迦五十年の経々においては、成仏なりがたく、成仏ができないから、現世に成仏の証拠としての幸福はつかみえないのである。されば、改めてこの世で仏にあい、下種をうけ、この下種を最初として直達正観といって、末法の仏の法力によって、ただちに仏の境涯にいたるのである。であるから、末法においては、下種益以外にないのである。


 釈迦は過去の下種した衆生を整理して成仏せしむる益で脱益といい、末法は下種して仏を成ぜしむるのであるから、下種の仏法といい、下種の仏法と脱の仏法とは根本的にちがっているので、末法今時においては、下種の仏法こそ絶対に必要なのである。ゆえに脱益の仏法を捨てて下種の仏法をとらなくてはならぬ。これを種脱相対して仏法を批判しなくてはならないというのである。
 

 かく諭じてくると、末法今時は絶対に下種仏法でなければならぬことがわかる。脱益・熟益の仏法は釈迦の二十八品の法華経に結せられ、下種の仏法は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の七文字の法華経である。
 

 世間で、よく法華経というと、釈迦の二十八品の法華経だけだと思いこんでいるが、釈迦の二十八品は、脱益の正法時の法華経で、熟益の法華経は、像法時の天台の摩訶止観であり、末法下種の法華経は、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の七文字の法華経である。


 日蓮大聖人、観心本尊抄にいわく、
 「再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(御書全集二四九㌻
 この末法今時の下種の法華経についても、大聖人滅後七百年の今日において、混迷をきたしている。それは本尊の迷いからきたものである。この本尊論については後日にこれを述べる。

 

       二、文証、理証、現証


 宗教を批判するに、また文証、理証、現証ということが大切である。


 ① 文証
 Aなる宗教があった場合、まずその宗派が依経とするものは何かということを究めなくてはならない。文の証拠を求めるのである。仏教以外の宗教なら、仏教教典と、Aなる宗教の用いる教典と比較研究しなくてはならぬ。教典、教義のない妙な宗教は、宗教とはいえないのである。
 仏教の最高哲理を知らない者はいさ知らず、仏教を知る者は、仏教以外の宗教の経文は低級なものであることを、ただちに知ることができるのである。
 Aなる宗教が、仏教外の教えである場合は、第一の五重の相対によって、その経文の高低、深浅、価値の正反を判定するのである。これが文証を求めるということである。

 ② 理証
 理証とは、文証があるとして、その文証が哲学的に研究して現代の科学と一致し、かつ理論として文化人が納得できるかどうか、または肯定しうるかとうかを研究しなくてはならない。
 いかに文証はりっぱでも、哲学的価値がなかったならば、これは捨てなくてはならない。
 哲学とは、思惟することであるが、これが、いかにりっぱに思惟されておっても、科学的でなくてはならない。すなわち普遍妥当性を有していなくてはならない。同一原因は、同一結果を、時と所とによらず具現しなくてはならない。
 かつそれが、最高の価値をもたらす結論を有しなくてはならない。すなわち、幸福を証明づける理論でなくてはならないのである。
 しかも、その幸福は万代不易の幸福であって、幾多の事件にもたたきこわされるような幸福であってはならないのである。
 この理証とは、事実、生活のうえに証明されなくてはならない。もともと、最高宗教は人間革命である。宿命の打破にある。ゆえに、この理を完全に説明できる科学でなくては、最高の宗教とはいえないのである。

 ③ 現証
 現証とは、その宗教を実践するにあたって、いかなる現実の証拠が生活にあらわれるかという実験証明が大切である。いかに神様を拝んでも、幸福という現証は起こってこないのである。日蓮大聖人も現証にはひじょうに重きをおかれている。
 立正安国論におかれても、浄土宗を破折せられておられるときにも、現証論を、次のごとく、お説きあそばしている。
 

 「慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、『唐の武宗皇帝・会昌元年勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え令む寺毎に三日巡輪すること絶えず、同二年回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す、同三年河北の節度使忽ち乱を起す、其の後大蕃国更た命を拒み回鶻国重ねて地を奪う、凡そ兵乱秦項の代に同じく災火邑里の際に起る、何に況んや武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す乱を撥ること能わずして遂に以て事有り』已上取意。此れを以て之を惟うに法然は後鳥羽院の御宇・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す、汝疑うこと莫かれ汝怪むこと莫かれ唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」(御書全集二五㌻
 

 以上は、邪教が国家におよぼした現証をお教えなすったのであるが、個人をふくんでの現証をお説きくだすったものに、聖人御難事御書がある。
 

 「太田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびゃうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり、各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」(御書全集一一九〇㌻
 

 かくのごとく、宗教を論ずるにあたっては、証拠を第一とするのである。日蓮大聖人が末法の仏であると断ずるにも、文証として法華経の上に明らかであり、その文証どおり、大聖人のご生活にあらわれたがゆえに、われわれは信ずるのである。
 

 法華経のなかに「而も此の経は、如来の現在すら、猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」(妙法蓮華経並開結三九〇㌻)とあるが、釈迦滅後、大聖人ほど法華経のために憎まれ、あだまれた方は一人もないのである。これは現実の証拠であり、かつ、これが末法の時であるから、理証のうえからいって、末法の本仏なのである。
 このように、現証を仏法において尊ぶのであって、その文、その理を実験証明せられなくてはならない。文証どおり、理証のとおり、現実生活に実験証明せられることが現証論で、セキが出た、それ現証だ、カゼをひいた、それ現証だなんというのは誤りである。


      三、教、機、時、国、教法流布の先後

 ① 教
 宗教の五綱のうちの教とは、いかなる教えが民衆を幸福にみちびくかを知るにある。しかれば、いかなる教えが末法今時に適切であるかを知るにある。この判定基準は五重の相対をもって、一応わかっていることと思うが、日蓮大聖人の教機時国抄に次のごとく、おおせられて、


 「所以に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは是れ教を知る者なり、但し光宅の法雲・道場の慧観等は涅槃経は法華経に勝れたりと、清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと、嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云う、天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず法華経に勝れたる経之れ有りと云わん者を諫暁せよ止まずんば現世に舌口中に爛れ後生は阿鼻地獄に堕すべし等と云云、此等の相違を能く能く之を弁えたる者は教を知れる者なり、当世の千万の学者等一一に之に迷えるか、若し爾らば教を知れる者之れ少きか教を知れる者之れ無ければ法華経を読む者之れ無し法華経を読む者之れ無ければ国師となる者無きなり、国師となる者無ければ国中の諸人・一切経の大・小・権・実・顕・密の差別に迷うて一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法の者と成り法に依って阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く法に依って生死を離るる者は爪上の土よりも少し、恐る可し恐る可し」(御書全集四四〇㌻


 大聖人は、末法今時に法華経こそすぐれたり、唯一絶対なりと知るが教を知る者なり、とのご断定である。しかし、この法華経は、釈迦の二十八品の法華経でもなく、また、像法の天台の摩訶止観でもない。末法下種、文底秘沈の南無妙法蓮華経の七文字の法華経である。この五字、七字の法華経こそ、末法唯一の教えと知るを、教を知るものといえるのである。

 ② 機
 さて機を知るとは、民衆の機根がいかなる教えによって成仏するか、すなわち、永遠の幸福をえるに、いかなる教えによってよい民衆かと、民衆の機根を知ることである。
 いまごろ、三年、五年も十年も、禅なぞゆっくりかんとしてすわって考えている人間は珍しい人間で、大衆にはむかないのである。法華経二十八品を書かなくては功徳がない、成仏できないとか、幸福になれないとかいったら、たいへんなことである。民衆は仏教なんてものは面倒くさいものだと思うであろう。科学の進んだ今日、金や木でつくった仏像を拝むほど、みなは愚かではない。金木でつくった仏像を拝んで功徳があるとは思うまい。


  今日の仏法は、久遠元初の自受用報身、末法下種の末法の本仏、日蓮大聖人の文底秘沈の大法・本地難思・境智冥合の大御本尊を受持して、唱題成仏の機根と知るを、機を知るというのである。

 ③ 時
 時を知るとは、いまは末法の時である。釈迦の仏法は功力をうしない、民衆とは遠離して邪宗横行して正邪を分かたず、民衆は仏教にくらく、邪宗と正宗との区別を知らずに、みな本尊に迷っているときである。かかるとき、正しい仏法が興って民衆を救う時である。正しい仏法とは、全東洋を救うべき日蓮正宗である。この日蓮正宗の本尊の弘まりたもう時と知るを、時を知れる者というのである。最高唯一の本尊の全東洋に弘まるとき、いかに東洋は平和に、かつ明るくなることであろう

 ④ 国
 国を知るとは、日本国に三妙合論の仏法がある。日本国に日蓮大聖人の東洋の仏法があり、一閻浮提総与の御本尊がいますのである。しかし、末法には日本の仏法が、中国、インドへと日の西を照らすが、ごとく弘まるのであると、御予言あそばしている。この御予言は絶対にまちがいないのである。このゆえに、日本国こそ、一大仏法建立の国である。これを知れるを国を知るというのである。

 ⑤ 教法流布の先後
 大聖人の御抄にいわく、
「五に教法流布の先後とは未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり必ず先に弘まれる法を知って後の法を弘むべし先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫を捨てて金珠を取るべし金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ」(御書全集四三九㌻
 

 しかるに、日本国は、この仏法流布の定義を破っているがゆえに、不幸続出しているのであると大聖人はお嘆きあり、かつこれを是正して、日本国を安定ならしめんと大師子吼をなすったのである。それがためにも、御本尊御出現をよろこび、御命にしたがわねばならぬのに、七百年間、御命に背いて亡国となったこと、恨みてもあまりあるのである。


 されば同じ御抄に、次のごとくおおせである。
 「建仁より已来今に五十余年の間・大日・仏陀・禅宗を弘め、法然・隆寛・浄土宗を興し実大乗を破して権宗に付き一切経を捨てて教外を立つ、譬えば珠を捨てて石を取り地を離れて空に登るが如し此は教法流布の先後を知らざる者なり。仏誡めて云く『悪象に値うとも悪知識に値わざれ』等と云云、法華経の勧持品に後の五百歳・二千余年に当って法華経の敵人・三類有る可しと記し置きたまえり当世は後五百歳に当れり、日蓮・仏語の実否を勘うるに三類の敵人之有り之を隠さば法華経の行者に非ず之を顕さば身命定めて喪わんか」(御書全集四四一㌻


 さて以上にてわかるように、日蓮大聖人、御身命を捨てて三類の強敵とあい、末法下種の仏法を建立せられたのである。教法流布の先後の義によって、当今は日蓮大聖人の仏法の弘まること明々白々である。
 当今の日蓮大聖人の仏法を大観するに、また教法流布の義は、明らかに観られるのである。


 日蓮大聖人の仏法は、三大秘法の仏法である。三大秘法とは、本門の題目、本尊、戒壇の三法である。
 しこうして、大聖人化導の順序を拝するのに、まず題目を流布せられ、つぎに本尊の御建立があり、ついで本門戒壇の建立を予言あそばされている。


 大聖人宗旨御建立より七百年、日本国中に題目は流布された。正邪にかかわらず題目は流布されたが、さて本尊にみな迷っているのである。
 本尊の邪正を判ずる時がきた。しかも亡国の状態はいよいよ本尊流布の兆である。唯一最高の本尊は、いよいよ東洋へと広宣流布する時がきたのである。
                           (昭和二十六年九月十日)