創価学会の歴史と確信(下)
私は、創価学会の理事長を、学会創立以来つとめてきたのである。私と故牧口会長とは、影の形に添うごとくで、私自身が生まれてきたのは、学会の理事長になるためのようであり、故牧口会長と生死をともにするためであったと考えられる。
それであるのにもかかわらず。私は創価学会の会長になることは、ほんとうにいやでいやでならなかったのであった。先生に万一のことがあったとき、会長の位置が当然、私にくることをおそれたのである。
私は、まず、第一回の試みとして寺坂陽三氏を教育し、次代会長の貫禄をつけんと努力したのである。しかし、彼は小才子にすぎず、牧口会長の口マネのみをして、学会内に勢力をうることのみ腐心し、ついには学会を二分しようとする機運にまで立ちいたらしめたのであった。
しかも、彼は法罰をうけ、故牧口会長を窮地におとしいれんとするの事件を起こしたのであった。
やむなく私は、事件の収拾に立ち、故稲葉伊之助氏ら三十余名の財務部員総意のもとに、行政面に牧口会長の権力を強化し、彼から幹部をうしなわしめて、ようやくことなきをえたのであるが、彼を次代会長とする計画は失敗に終わったのであった。しかし、次代会長の養成は、たえず私の脳裏を去らなかったのである。
その後、現在の中野支部長・神尾武雄氏に目をつけて、牧口会長に進言し、教育を願ったのである。しかし、昭和十八年のアラシにおいて、ひとまず、その考えを捨てなければならなくなったのは、氏の夫人の信心の力にも関係し、氏自身の生命力にも関係することであった。氏はふたたび一兵卒として再出発をなし、将来を期することになっているのである。
それと同時のころ、野島辰次君が信心第一の境地に立ち、その心境の進展に珍しきものがあって、私をひじょうによろこばせたのであった。故会長と相談の結果、副理事長として私の実権をゆずり、昭和十八年の秋の総会に理事長に就任することに内定していたのであったが、昭和十八年のアラシに、惜しくも大退転をなし、私は不思議を感ぜざるをえないのである。同氏はいま、ほそぼそと信心を回復しつつあるとはいえ、とうていわれわれ同志の千万分の一にもおよばぬ状態であるがためか、わが同志を嫉妬するはおもしろいことである。仏道を志す者は数多いが、仏道を成ずる者はまれであると、大聖人の御遺文にうけたまわるのであるが、これも同じ道理ではないか。
かかる二代会長の養成の失敗は、私自身以外に二代の会長たりうる者がないためなのか、はたまた私自身が自覚せねばならぬ宿業のゆえか、またまた不思議を感ずる以外はないのである。
昭和二十年、名誉の出獄の後、創価学会の再建運動にかかり、ついに今日にみるがごとき大幹部、および青年同志の集いとなったのであるが、私はいまだ会長たる自覚に立たず、理事長のイスにしがみつき、会長がどこからかあらわれぬかと、頼めぬ頼みを唯一の空頼みとしていたのであった。いくどとなく会長たるべく、和泉筆頭理事、柏原ヤス理事などよりすすめられたのであったが、私は固辞してうけなかったのは、前述の理由であった。
なぜ、こんなに、私は会長たることをいやがったのであろうか。私自身、理解のできない境地であった。いまにしてこれを考えると、もっともなことであるとも思われる。創価学会の使命は、じつに重大であって、創価学会の誕生には深い深い意義があったのである。ゆえに、絶対の確信ある者でなければ、その位置にはつけないので、私にその確信なく、なんとなく恐れをいだいたものにちがいない。
牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信に立たれていたではないか。あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が国家に迎合しようとしているとき、一国の隆昌のためには国家諫暁よりないとして、「日蓮正宗をつぶしても国家諫暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ」と厳然たる命令をくだされたことを思い出すなら、先生の確信のほどがしのばれるのである。
いまの私は不肖にして、いまだ絶対の確信はなしといえども、大聖人が御出現のおすがたをつくづく拝したてまつり、一大信心に立って、この愚鈍の身をただ御本尊に捧げたてまつるという一法のみによって、会長の位置につかんと決意したのである。この決意の根本は前に述べたごとく、深い大御本尊のご慈悲をうけたことによる以外に、なにもないのである。
この決意をもらすや、理事長矢島周平氏はじめ和泉、森田、馬場、柏原、原島、小泉、辻などの幹部、および青年部諸氏の会長推戴の運動となって、五月三日、私は会長に就任したのであった。
私は学会の総意を大聖人の御命令と確信し、矢島理事長の辞任とともに、会の組織をあらため、折伏の大行進の命を発したのである。ここにおいて、学会は発迹顕本したのである。
顧みれば、昭和十八年の春ごろから、故会長が、学会は「発迹顕本しなくてはならぬ」とログセにおおせになっておられた。
われわれは、学会が「発迹顕本」するということは、どんなことかと、迷ったのであった。
故会長は、学会は発迹顕本しなくてはならんと、この発迹顕本の実事をあらわさないことは、われわれが悪いようにいうのであった。みなは私同様、ただとまどうだけで、どうすることもできなかった。
昭和二十年七月、出獄の日を期して、私はまず故会長に、かく、こたえることができるようになったのであった。
「われわれの生命は永遠である。無始無終である。われわれは末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、われわれは地涌の菩薩であります」と。
この自覚は会員諸氏のなかに浸透してきたのであったが、いまだ学会自体の発迹顕本とはいいえないので、ただ各人の自覚の問題に属することにすぎない。
しかるに、こんどは学会総体に偉大な自覚が生じ、偉大なる確信に立って活動を開始し、次のごとく、牧口会長にこたえることができたのである。
「教相面すなわち外用のすがたにおいては、われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である。三世十方の仏菩薩の前であろうと、地獄の底に暮らそうと、声高らかに大御本尊に七文字の法華経を読誦したてまつり、胸にかけたる大御本尊を唯一の誇りとする。しこうして、日蓮大聖人のお教えを身をもってうけたまわり、忠順に自行化他にわたる七文字の法華経を身をもって読みたてまつり、いっさいの邪宗を破って、かならずや東洋への広宣流布の使徒として、私どもは、故会長の意志をついで、大御本尊の御前において死なんのみであります」
この確信が学会の中心思想で、いまや学会に瀰漫(びまん)しつつある。これこそ発迹顕本であるまいか。
この確信に立ち、学会においては、広宣流布大願の「曼荼羅」を、六十四世水谷日昇上人にお願い申しあげ、法主上人におかせられては、学会の決意を嘉みせられて、広宣流布大願の大御本尊のお下げわたしをいただいたのである。
七月十八日、入仏式をいとなみ、七月二十二日、学会全体の奉戴式が九段一口坂の家政女学院の講堂に、法主上人、堀御隠尊猊下、堀米尊能師ほか数名の御尊師のご臨席をあおぎ、学会の精兵は集いよって壮大にいとなまれたのである。
発迹顕本せる学会は大聖人のお声のままに大大活動にはいったのであるが、前途の多難はまた覚悟のうえであるが、われわれがいかに位が高いかを確信すれば、もののかずではないのである。すなわち、われら学会人の位は、大聖人より次のごとく評されている。
「此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓(おしめ)に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ」(四信五品抄 御書全集三四二㌻)と。
この御真文を拝しえた学会人は、偉大な自覚に立ち、東洋への広宣流布を大願としたのである。
しかも、立宗七百年を迎うるにあたり、一大決意のうえ、実践運動にとりかかった会員は勇気に満ちみち、一糸乱れざる統帥のもとに、厳たる組織のうえに、足並みそろえて大折伏に行進しだしたのである。創価学会のごとき団体が、過去七百年の間に、どこにあったであろうか。各理事、各部長の勇敢なる闘争心、つづく負けじ魂の各会員、講義に、折伏に、火の玉のごとき状態である。
時は、まさに来れり。大折伏の時は、まさに来れり。
一国広宣流布の時は、まさに来れり。いな、いな、東洋への流布の時が来たのである。
しずかに日蓮大聖人が立宗より大御本尊確立までの、東洋および日本のすがたを注視せよ。
蒙古は宋の国を滅ぼしつつ東洋の平定にかかり、ついに、弘安二年に宋の国は滅びてしまったのである。その以前に東洋の諸国は併呑せられて日本のみが残ったのは、御本仏出現の奇しき縁のためか。その日本も、歴史的に調べてみるならば、元の総国力をあげて撃ったなら、風前の灯であったのは寒心のいたりである。
しこうして、全東洋は戦禍のために民衆は苦悩の極致にたちいたったのは、今日の東洋の状態に、よく似ているのであった。かつ、日本の民衆が、たえず蒙古襲来におびえていたすがたは、今日の日本民衆が原子爆弾におびえきっているのと同様である。それに日本民衆の苦悩は立正安国論に拝するがごとくで、じつに悲惨きわまるものであった。
立正安国論より拝したてまつる日本の実情を大聖人のおおせには、
「近年来の天変、地夭、飢饉、疫病は日本中であって、この天文上の変動、食糧の大不足、かつ、そのうえに疫病は流行して、苦しまないものはない。牛や馬は地上に死骸となっており、死人の骨は、どこの道路にもいっぱいである。死人多いことおびただしく、生きておっても、たえず死の脅迫におそれないものはない」(趣意)と。
じつに全東洋民衆の困苦のきわみのすがたは、また日本の民衆のすがたであった。
このとき、末法の御本仏は「南無妙法蓮華経」の御本尊とあらわれて、日本民衆および全世界の民衆を救う礎を、たてられたのであった。なんとありがたいことであり、感謝の極致ではないか。
しかるに、全民衆は、この御本仏にたいして、いかなる礼をとったか。御本仏日蓮大聖人は、末法の愚癡の全民衆を救わんため、大御本尊を樹立して、これをさずけくださる完全なる準備をなさったのであるにもかかわらず、謗法の日本民衆は、大聖人の絶大なるご慈悲に浴そうとはしないのみか、憎み、軽んじ、追い出し、流罪したのである。もったいないきわみではないか。
しかし、威力ある御本仏の出現は、「南無妙法蓮華経」の声が全国にわたった事実は、りっぱな救世主の証拠ではないか。
かくのごとく、法体の広宣流布は完全になりたたれたのであるが、いまだ、御本尊の流布も、戒壇の建立も、後の末弟に残された問題であった。
日蓮門下七百年の願望は、日興上人にたまわった一期弘法付嘱書(御書全集一六〇〇㌻)のごとく、本門寺の戒壇建立である。
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年 壬 午 九月 日
日蓮 在 御 判
血脈の次第 日蓮日興」
右の御おおせにあきらかなごとく、三大秘法の戒壇建立は、日蓮門下一同の大願である。
これを三大秘法抄と照らし合わせて、勅宣ならびに御教書を申しくだしのおことばのみに心をとられて、広宣流布と戒壇建立とを逆に考えている者がある。
すなわち戒壇さえ建立すれば、広宣流布が完成したようにかんたんに考えている。たとえば、いまのごとき弱小の日蓮正宗教団に、国立(本門)の戒壇が建ったとして、どんな結果が生ずるか。一国の謗法が大御本尊のありがたさを知らない現代では、どんなことになるであろうか。
日本国の謗法者は、国立(本門)戒壇を一個の名物がふえたぐらいに考えるにすぎないのではないか。国立(本門)戒壇にご参詣にきて、邪宗の札と同じ考えで御本尊のお下げわたしを願って、みながそまつにしたならば、一国に起こる難事はどんなものであろうか。思いなかばにすぐるものがある。
御僧侶のなかには、また次のごとくいうであろう。「めったやたらに本尊はお下げしない」と。
とんでもないことである。そんなことで、寺を建てたが、本尊を下げわたさないというならば、寺は建ったが、なんのはたらきもしない。ただ坊主の寝床をつくったにすぎないことになる。広宣流布とは寺を建てることとかいうことではなくて、結論においては、正法が流布して中心がきまらなければならなくなって、寺が建つことである。
目を開いて一期弘法付嘱書を拝読せよ。「本門弘通の大導師たるべきなり」との御おおせは大切なことである。まず、戒壇建立にいたるまえに、御開山日興上人の御おおせどおり活動して時を待てとの御事である。
日興上人の御おおせに、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(御書全集一六一八㌻)と。
されば日蓮大聖人の末弟をもって任じ、かつ前述のごとく位高き位置にあることを自覚した大菩薩たちは、まず「本尊」の流布を、身命を捨ててなさなければならぬことは決定的である。
一国に大御本尊が流布したなら、自然に当然の帰結として戒壇の建立ができるので、戒壇建立ばかり口にして折伏もせず、正法の流布に身命を捨てえない坊主は、じつに困ったものである。この考えにまかせて、学会人は身命を捧げての折伏行をなしていることは、申すまでもないことである。
しこうして、広宣流布は日本一国のものでないことを学会人は確信するので、全東洋へ大聖人の仏法は広宣流布することを信じてやまず、かつ、これにむかって、大闘争を、活動を開始したのである。
この東洋への広宣流布は、御本仏を絶対に信じまいらせて、はじめて生ずるもので、一大信心のうえに立たなくては、たんなる空論とより聞こえないであろう。
顕仏未来記に、大聖人の御おおせには、「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(御書全集五〇八㌻)と。
これは、大聖人の仏法が未来の仏法であるとの金言であらせられる。
また、諫暁八幡抄にいわく、
「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(御書全集五八八㌻)と。
また顕仏未来記にいわく、
「但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや、疑って云く何を以て汝之を知る、答えて云く月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(御書全集五〇八㌻)と。
以上の御抄に拝するがごとく、インドの仏教が東へ東へとわたったように、インド、中国へとわたるのである。今日末法に、大聖人の仏法が完全に日本に建立せられた以上は、この日本に建立せられた末法の仏法は、大聖人を御本仏とあおいで、朝鮮へ、中国へ、インドへと、西へむかって発展し、全東洋の民衆を救うので、創価学会は絶対にこれを信ずるとともに、この信念にむかって、活動を開始してきたのである。
全東洋へと大聖人の仏法の進出するときは、日本一国の広宣流布は問題ではなく、かならず到達することで、戒壇の建立も、そのときは当然のこととして現出するもので、一国民衆の尊崇をうけるのであることはいうまでもない。
わが学会は、かかるめでたきときに際会したのであるから、不自惜身命の大願をたてて、ここに大折伏を強行するの一大確信に立ち、生きたよろこびを感じて、成仏の道を直行するは、なんたる幸福であろうか。
かかる大事のときなれば、四菩薩ご出現はまた絶対に疑うべきではなく、ご棟梁として日目上人様がご出生か。仏智にあらずば、これを知るあたわずとはいえども、末の末の末弟たる学会員は、ご老齢の身をひっさげて大折伏の途上、お倒れあそばした日目上人のご命を命として、宗開両祖にむくいたてまつらんとしなければ、成仏はかないがたしと知らなければならない。
されば御僧侶を尊び、悪侶はいましめ、悪坊主を破り、宗団を外敵より守って、僧俗一体た
らんと願い、日蓮正宗教団を命がけで守らなくてはならぬ。
願わくは御僧侶におかれては、学会のこの確信をめでられ、悪侶をのぞいて教団を清め、われわれ学会人の闘争の指揮をとって外敵を伏し、宗開両祖にむくいんことを、こいねがわれんことを。
楠正成が尽忠の志あるにかかわらず、愚迷の大宮人藤原忠清あって湊河原に死出の旅路にたったことは、あまりに有名であるが、ただ願わくは賢明な僧侶あられて、創価学会の同志を湊河原に死なせず、藤原藤房、末房の賢慮を用い、玉輦を兵庫の道にむかえたてまつりし正成のよろこびをなさしめんことを切願するものである。
この僧俗一致の立場にあって、愚迷は僧侶を尊び、僧侶は信者を愛し、たがいに嫉妬することなく、大聖人のお教えを奉じ、遠く東洋三国に、本尊の流布せられん日を、大御本尊に祈るものである。
(昭和二十六年八月十日)
〔注〕 国立戒壇については、本全集第一巻二〇二㌻参照のこと。