朝鮮動乱と広宣流布

 三十八度線を中心にした朝鮮の戦争は、共産軍と国連軍の闘争である。
 戦争の勝敗、政策、思想の是非を吾人は論ずるものではないが、この戦争によって、夫を失い、妻をなくし、子を求め、親をさがす民衆が多くおりはしないかと嘆くものである。
 きのうまでの財産を失って、路頭に迷って、にわかに死んだものもあるであろう。なんのために死なねばならぬかを知らずに、死んでいった若者もあるであろう。「私はなにも悪いことをしない」と叫んで殺されていった老婆もいるにちがいない。親とか兄弟とかいう種類の縁者が、世の中にいるのかと不思議がる子どもの群れもできているにちがいない。着のみ着のままが、人生のふつうの生活だと思いこむようになった主婦も少なくあるまい。むかし食べた米のごはんを夢みておどろく老人がいないであろうか。


 かれらのなかには、共産党思想が何で、国連軍がなんできたかも知らない者が多くなかろうか。「おまえはどっちの味方だ」と聞かれて、おどろいた顔をして、「ごはんの味方で、家のあるほうへつきます」と、平気で答える者がなかろうか。


 朝鮮民族の生活は、このうえない悲惨な生活で、かれらの身の上におおいかぶさった世界は悪国悪時の世界である。
 だれが悪いのだろうか。


 日蓮大聖人が、かかる民衆の嘆き、世の乱れを嘆いての御おおせには、
 「円覆(天)を仰いで恨を呑み方載(地)に俯して盧を深くす」(御書全集一七㌻)と。
 いったい、いかなるわけかと悲しみとともに嘆き、嘆きとともに、どうしたわけかとお考えになられた。


 吾人も世界の大勢のしからしむるところとはいえ、極東の小国に世界中の十数か国の兵隊が集まって戦争する朝鮮民族の運命が、不思議でならないのである。
 政治家をもって論ぜしむれば、政治家の意見があり、国際観よりみれば、またこれ、理の当然の意見があるかもしれないが、朝鮮民衆が、たとえ一時的にせよ、あるいは永続的にせよ、このように苦しみ、悩み、しかも世界動乱の縮図が、朝鮮なる小国に展開されているのが不思議でならない。


 吾人のごとき愚者は、もちろん、なんのゆえかは知るによしないが、御本仏日蓮大聖人のお教えを少々知るがゆえに、その本源について考えをいたしてみようと思う。
 これみな、広宣流布の定義によって解さるべきである。


 すなわち、大聖人、立正安国論に、かかる悪国悪時のきたるゆえんを説いていわく、
 「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず
(御書全集一七㌻)と。


 東洋に仏法おこって三千年、仏教流布して仏天の加護のあった時代は、つねに天下は太平であった。一度仏法をうしない、仏法ありといえども、形式的教えで、仏がご出現の一大事の因縁を忘れ、仏教の真髄を知る者一人もない時代の民衆も、みな「正に背き人悉く悪に帰す」の御金言にあたる国で、仏天の加護をうしない、民衆が塗炭の苦しみにおちいるのである。


 立正安国論にお引きになっている四経の一文、大集経の文を、次に述べることによって、今日の東洋のすがたをみようではないか。


 大集経にいわく「若し国王有って無量世に於て施戒慧を修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば是くの如く種ゆる所の無量の善根悉く皆滅失して其の国当に三の不祥の事有るべし、一には穀貴・二には兵革・三には疫病なり、一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん、暴火横に起り悪風雨多く暴水増長して人民を吹漂(ふきただよわ)し内外の親戚其れ共に謀叛せん、其の王久しからずして当に重病に遇い寿終の後・大地獄の中に生ずべし、乃至王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復た是くの如くならん」(御書全集二〇㌻)と。


 この文、日本の国にあたり、朝鮮民族にあたりはしないか。「我が法の滅せんを見て」とは、仏教、真実の仏教が滅するのをみて、国の主権者がのほほんとしてバカな顔をしていれば、三つの災難があって、主権者がどんな政令をくだしても民衆はいうことをきかないということだ。

 日本国のすがたはどうであろうか。朝鮮民族はこれをもってどう考えるか。

 

「常に隣国の侵嬈する所と為らん」と。この文、東洋において日本および朝鮮を除いて、いずこの国をさすか。


 顧みよ、偉大なる仏の慈悲、母の子におぼれた愛情ではない。厳たる父の愛情である。この理は、また、神が、神自身のなすべきことを怠って、正法を護持しないがゆえに、他国の帝釈の諫めをうける仏法の理であって、これは、後に引く諫暁八幡抄にあきらかであれば、吾人はそのときこれを述べるであろう。


 「暴火、暴風、暴水」と、かかることのありしや、また、これより先起こるとするや、仏の教えなれば、吾人はこれを信ずるものである。

「人民を吹漂し内外の親戚其れ共に謀叛せん」
と、上は朝鮮にこのすがた顕著にして、下の文日本に歴然たり、恐るべし、悲しむべしである。


 人民がいくところがない。楽土にたいする希望がないほど悲しきことはない。自己の小さな生命の努力は、大風に吹きちらされる鳥の羽毛のごときものであるからだ。


 ただ天を恨み地に泣き、救いを求めて助けなく、泣く声もただ風をさわがせるだけである。ついには神を恨み、仏を憎み、世をのろい、人を怨み、地獄・修羅・業火に身をこがすだけである。「王の寿終わって後は大地獄の中に生まれん」と。

 

 またいわく「夫人も王子も大臣も、その政治の責任者はまた同じ」。そのごとくであるかいなや、仏眼によるにあらずんば知るによしないが、仏は不妄語の方である。仏が不妄語の人ならば、“仏法-真実の仏法”のまさに滅せんをみて捨ておいた王の後生のほどは恐るべきである。


 これ三つ不祥の事ありというなかの一つである、「穀貴」とは、物が高くて民衆が買うことができない、生活程度が下落することで、すなわちインフレのことである。インフレに悩むぞとのことである


 二つに「兵革」とは、戦争の災難を受けるということである。それが、外国からの戦争にしても、内戦にしても、民衆にとって、なんの価値あることであろうか。


 三つに「疫病」とは、伝染病の流行であるまた民衆の精神分裂を意味する

 一人は共産主義だ、一人は国粋主義だ、一人は資本主義だ、一人は享楽主義だ、また個人主義うんぬんと、民衆間に思想上、政治上、なんの統一も行われないすがたである。


 この大集経の三つのすがたが東洋になしとするか、また、ありとすれば、いずこの国をさすのか。
 

 これみな、仏の金言に背いて仏をまつらないところから出来したものである邪宗教、低級仏教によって、仏の真意に背く仏罰である。日蓮大聖人の「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」とのお教えを、再度繰り返して吾人はさけぶのである。


 ある人はいうであろう。「仏教は東洋のものだ。東洋に仏教なしと、だれがいうか。インドにも。ビルマにも、仏印にも、中国にも、朝鮮にも、仏教はある。ことに日本は仏教の国ではないか。仏教がないと、だれがいうのか。そのうえ、日本は神の国である。神々が日本の国を捨てるわけがない。おかしいことをおまえはいうではないか」と。「仏教のある国を、諸天善神が守るなら、日本も守られてょいはずではないか」と。


 それ仏教の真実は法華経にある。法華経が仏教の真髄なりと知っている国が東洋にあるであろうか。

 

 仏教にも最高・最低があって、低いほうからいうと、小乗教と大乗教がある。大乗教にも権教と実教がある。この仏教の小乗教、権大乗教は、もう効力をうしなって国土の守りとはならないことは、日蓮大聖人が一生おかかりになってお説きになっている。いまごろ、小乗仏教の形骸を守って、なんの仏天の加護があろうか。そのうえ、実教という釈尊の教えの真髄たる法華経をたもっている国はどこにもない。この法華経は釈迦が世の中に生まれてきた目的であって、法華経を説かなかったら、釈迦出世の意義はないのである。


 されば仏教をたもつといえど、釈迦の真意に背いているがゆえに、仏天の加護がないのである
 

 ある人は、またいう。「法華経は日本の国で、みなやっているではないか。法華経の経文なら、日本にいくらもある。日本に法華経なしとはいわせはしない」と。


 このようなことをいうのが日本人の常識で、この常識すら日本以外の国にはないほど、仏教がなくなっているのである。
 しかるに、この常識すら笑いぐさである。それ法華経にも幾種類もあるが、とりわけ人類が地球上に生存して以来の法華経を大別すると三種類になる


 第一は在世の法華経といって、八巻二十八品の法華経で、日本の大半の人々が法華経だというと、これ以外にないと信じきっている法華経である。


 第二の法華経は天台の摩訶止観の一念三千で、像法の法華経と称するのである。
 この正法・像法の法華経は。現世には経だけあって行・証がない。すなわち、一般大衆を利益する力がないのである。
 こういうなら、「バカをいえ、釈迦の教えで仏法に功徳があるというなら、釈迦の法華経も、天台の摩訶止観も、功徳がないとはいえないではないか」と。一応もっともに聞こえる。


 しかし、これは仏法用語として用いられている末法という意味を知らないからだ。また立ちいたっていうなら、仏の化導の方程式を知らないからだと吾人は思う。


 仏の化導の方程式は除くとして、末法ということは、末の法と読むのではない。釈迦の仏法が利益をうしなう時代をさして末法というのである。しかれば、釈迦自身が、自分の滅後二千年後を末法といい、自分の仏法に利益なしと断じているものである。釈迦自身のいうことであるから信ずべきである
 

 ある人はいうであろう。「末法というて、釈迦の教えの利益がないときを釈迦自身が予言しているなら、おまえが“仏法がないから災難があるんだ、正法を護持しないから三災七難があって、民衆がおおいに悩むのだ”ということもウソではないか」と。
 

 これは、さきほどいうたように、仏には化導の儀式がある。一仏が、ある時代を化導して、その仏の法が功力をうしなうときには、かならず仏には偉大な慈悲があるゆえに、民衆に第二の出現する仏を予言し、次代の苦悩を救う手段を講ずることになっている。これを相伝といって、この方法をとらぬ仏は、仏とはいっても。じつは仏でないのである。


 ゆえに釈迦も、かの教義の最高峰として、在世の二十八品の法華経を説き、あわせて、そのなかに末法の仏の出現を予言しかつそのすがたを説いているのである。このゆえに、その予言のごとく、御本仏は出現して末法の法華経をお説きになったのである。


 この法華経こそ、末法の仏法であり、今日の一般大衆が救わるべき正法で、三世の諸仏、菩薩、天魔の命をかけて守りたもうところのもので、この末法の法華経を尊崇し、信仰してこそ、仏天の加護、ここに顕然たるものがあるのである。
 

 しからば、この末法の法華経の体相はいかん
 「南無妙法蓮華経」の七文字の法華経で、事の一念三千の法門である。すなわち日蓮大聖人の独一本門のお教え、第三の法門である。


 悲しいかな、世みなこの正法に背き、悪道に堕ちることよ。かく吾人がいうならば、ある人はいわん。「それほど尊い南無妙法蓮華経なれば、いま日本国に弘まり、身延、池上、仏立講、霊友会、何々会と、数えることのできないほどの流派で唱えているではないか、天の加護なしとはなにごとぞ」と。


 悲しいかな、盲人は天日を見ず、聾者は天雷を聞かず、世みな愚癡の衆生であるがゆえに、真実の日蓮大聖人のお教えは、いま日本国に流布している妙法蓮華経とは、似て非なるものである。日蓮大聖人の真実のお教えは、独一本門といい、文底秘沈というも、みな一閻浮提総与の三大秘法の大御本尊を根本としたお教えでなくてはならない。

 

 この教えは、今日末法においては、富士大石寺にこそあれ、ほかにはないのである。この大白法が、日本に、東洋にと弘ま
らなくては、仏天の如護はないのである。
 末法の真の仏教というのは、富士大石寺の仏法をいうのであって。この大仏法が日本国にあるのを、時の政治家、指導者が、見ず、知らず、語らず、また求めず。しかるがゆえに、諫暁八幡抄に大聖人のおおせあるには、「仏・此の世界と他方の世界との梵釈・日月・四天・竜神等を集めて我が正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が人王・人民等の身に入りて悩乱せんを見乍ら聞き乍ら治罰せずして須臾もすごすならば必ず梵釈等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神・治罰を加えずば梵釈・四天等も守護神に治罰を加うべし梵釈又かくのごとし、梵釈等は必ず此の世界の梵釈・日月・四天等を治罰すべし、若し然らずんば三世の諸仏の出世に漏れ永く梵釈等の位を失いて無間大城に沈むべし」(御書全集五七八㌻)と。
 

 かく御おおせの大聖人様のおことばをかみくだいて、わが心に入れたならば、いまや日本国のすがたをみて、仏の御予言におどろかぬ者があろうか。

 日本の氏神、梵釈にせめられ、日本の梵釈、力弱くして氏神を罰するに功力なく、他国の梵釈にしかりをこうむっているのである。
 

 かく日本国を観ずるとき、朝鮮民族が、いま朝鮮国内の氏神に捨てられたりとするか、氏神、東方の仏教を求むる人なきによって国を捨て、聖人、所を去りませるか。吾人はこれを知らず、ただ仏眼により仏の御鏡に照らして、さてはと、これを嘆ずるのみ。
 ある人いわん。「おまえは日本国すらおまえの真の仏法が弘まらぬに、どうして他の国をいいだすのだ。自分の国に仏教を弘め、しかるのち、これをいうてはどうか。本末転倒の観がある」と。

 吾人の朝鮮民衆の身の上を仏教に照らしてこれを論ずるのは、きのうは日本の身の上、きょうは朝鮮の身の上、あすはまたいずこの国の運命とやせんと、世界民衆を憂えるとともに、仏の金言むなしがらざるを思い、かつはこの騒乱のすがたこそ、日蓮大聖人の仏法が東洋に広宣流布する兆なりと確信するがゆえである。

 仏法日本に厳然と建立せり。日本国民いまだ目ざめずといえど、この仏法の日本に弘まることは永い先のことではないと確信するからである。

 大聖人御おおせに、
 「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(諫暁八幡抄 御書全集五八八㌻)


 「扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ」とは、日本国に末法の御仏出現せりとのおおせである。ゆえに次下に、「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり」とは、仏法が中国より朝鮮、朝鮮から日本にきた仏法流通の相で、「日は東より出づ」とは、末法にいたって、真の仏法がインドへ流通するとの大聖人の御予言である。
 

 しかりとすれば、日本の仏法とは何を指すのか。いうまでもなく、大聖人の大確信たる末法の仏法たる「南無妙法蓮華経」の七字の法華経が、朝鮮へ、中国へ、インドへと流通すべしとの御おおせである。


 願わくは、末法の東洋の真実まちがいない仏法が、日本民衆に理解されたいものである。日本民族こそ仏より大乗仏教が理解される民族であるとおおせられている

 

 そのゆえは、釈迦滅後九百年、いまから二千年以前にあらわされた瑜伽論には「丑寅の隅に大乗・妙法蓮華経の流布すべき小国ありと見えたり」(御書全集五四四㌻)と。
 

 インドの過去の人すら、日本の国を上記のごとく述べられて、法華経を理解すべき国であると称している。どうか一同、心を合わせて七文字の法華経を信じ、賛嘆し、流布して、心からの東洋平和を願って、朝鮮国に仏法を渡そうではないか。
 

 一国広宣流布の秋はいまなり。東洋広宣流布の兆はあらわれたり。
 仏勅をこうむった日蓮正宗の信者は奮い立とうではないか。
 ことに創価学会の闘士こそ、先陣をきられんことを願うものである。
 

 

謗法の国に生まれた者どもの心得(この一文は戸田城聖全集第三巻では省略されている)

 

 筒御器抄におおせあり、
 「謗国の失を脱れんと思はば国主を諌暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり、我不愛身命・但惜無上道と説かれ身軽法重・死身弘法と釈せられし是なり、過去遠遠劫より今に仏に成らざりける事は加様の事に恐れて云い出さざりける故なり、未来も亦復是くの如くなるべし」(御書全集一〇七六㌻)と。

 「加様の事に恐れて」とは流罪、死罪なり。「未来も亦復是くの如くなるべし」とは、われらにたいしての仏勅なり。
 いま日蓮正宗の信者をみるに、流罪、死罪をおそれず、一国の謗法を責めんとするものがあるか。いま、もし強く一国の謗法を責めなば、ことを世法によせて、かならず国王の難があるであろう。


 しかし、この難をおそれて身の安きをはかっては、仏勅に背くことになり、仏勅にかしこみて法戦を挑まば、この難がある。いかんがはせんである。しかし、吾人は仏の子であり、弟子であり、臣下である以上、たとい身命におよぶとも、仏の御心にかなわんために、一国折伏の大旗を立てなくてはならない。これが末法今時の信者の決意でなくてはならない。

                               (昭和二十六年五月十日)